関係性を捉える学び、生態学
大学で自然環境について学んだ僕は、生態学の研究室に所属した。生態学は、生き物と生き物の関係、生物と環境の関係、そして生き物と人間の関係に着目する。具体的な生き物について、種の特性を掘り下げたり、新たな種を分類したりする「生物学」よりも、形のない「関係性」に着目する生態学の方が、自分には相性が良かったようだ。僕は個々の生物の名前を覚えることがとても苦手で、関係性や振る舞いは理解しやすい。
研究室では、ブナ林や湿地など原生的な自然とともに、多くの先輩が里山を研究対象にしていた。当時の助教授は里山の保全活動にも力を入れていたので、学生たちはしばしば市民活動に連れて行かれ、ボランティアとして木を切ったり植えたりした。
里山ボランティア活動の違和感
ボランティア活動に違和感を感じたのは博士課程をオーバーした年の冬だった。全国的な里山保全活動の集会があり、全国の里山保全ボランティアが広島の山に集った2001年のことだ。イベントの終了後に、研究室出身の先輩から、広島の関係者が集まる「打ち上げ」に誘われた。でも、なんだか変な感じがした。
「里山ボランティアの活動は、里山の手入れをすることに意義や喜びを見出しているのだから、山での活動そのものが、その日のハイライトなのでは?」「山がきれいになった喜びを分かち合うなら主賓はボランティアの人たちじゃないか?」そんなモヤモヤとした考えが浮かんで、結局打ち上げには参加しなかった。
マネジメントの必要性
このことをきっかけに、里山ボランティアについてしばらく考えることになり、自分なりに二つのことを理解した。
ひとつ目は、イベントそのものを調整したり運営したりする人が必要で、その役割を担う人は、ボランティアの中から選ぶべきではないことだ。様々な活動に参加する中で、ボランティア活動に参加していた人が、いつの間にか団体の運営や会計をするようになっている状況を見た。本来は活動そのものをしたかったはずの人が、不本意なままに運営役として関わっている姿を見るのは悲しかった。だから、活動の後に打ち上げが必要なのかもしれない。
活動そのものの満足感
もうひとつは、ボランティア活動は、参加者がボランティアとして「活動の達成感」を最大限に得られるようにイベントを企画すべきだということだ。もしも活動そのものから達成感を得られなければ、主催者は保全活動そのものに加えて、なにかしらの「おまけ」や「義務」を用意することが必要になる。里山保全の活動では、しばしば「ボランティアの動員」という言葉も聞いた。ボランティアという言葉が、本来の意味とはずいぶん異なる使われ方をしている、と感じた。
持続可能な里山保全への糸口
おまけや義務で成り立つイベントは、どこかに無理があるため、いつまでも続くことはない。当時は言葉にできていなかったが、参加者と運営役の両方が、それぞれ自分の意志と判断のもとに集う、「ボトムアップ型の活動」こそが、持続的な里山保全のために必要だと、ぼんやりと気付かされた。