夏とかいう嘘の季節
浅井音楽
夏が大嫌いです。逆に、大好きすぎるのかもしれません。
夏は嘘の季節です。夏を愛するということは、嘘を愛するということです。
個人的な夏のイメージの中核は音にあります。遠くに聞こえる蝉の声、グラスの中で氷が溶けてぶつかる音、思い出したように揺れる風鈴、鍵盤のミ♭やシ♭。
基本的に人間の感情は全て屈折していて、まっすぐな感情というものはありません。その屈折は主に言葉と、言葉が指し示そうとするものとの距離によって生まれます。
言葉の役割は嘘をつくことです。
リンゴもアップルもポムも全てあの果物を指す言葉ですが、「あの果物」そのものではありません。「好きなはずなのにモヤモヤする」や「嫌いなはずなのに離れられない」といったときの「ほんとうの気持ち」は、好きや嫌いといった言葉の枠に対してぶかぶかすぎたり、きつきつすぎたりするのではないでしょうか。
言葉は嘘をつくという形でしかものを語れず「ほんとうのこと」には決してたどり着けません。カウンセリングとは、ぽっかりと空いた穴のような「ほんとうのこと」の周りをぐるぐると歩き回りながら近づき、なんとかその輪郭を確かめようとする営みでもあります。
言葉と言葉が示すものの距離は、ただ生きているぶんにはあまり意識されません。夏という季節は、強烈な日差しと気温によってこの距離を露わにします。
個人的な夏のイメージは涼やかな音にあると冒頭で言いました。ですが一歩外に出てみれば、情緒の欠片もない暴力的な暑さと肌にまとわりつく不快な風が襲いかかってきます。眩しさに耐えかねて下を向くと道には早生まれの蝉が転がり、ひからびたミミズが道にへばりついている。これはもう「夏」を超えた「熱」だ、これからは「熱」と呼ぶ。
涼やかな音と爽やかな風に満たされた「あの夏」はもはや現実には存在しない、嘘の季節です。「熱」が「危険な暑さ」「外出は避けるように」と報道され、遠ざけられるものになるにつれて、夏のイメージだけが幽霊のように一人歩きしていきます。
目の前の現実が苛烈であるほど、イメージは美化され神聖なものになっていきます。どこにもない「あの夏」を求める気持ちは、来ないと分かっている奇跡をいつまでも待っているような気持ちと似ています。諦めと失望とほんのちょっとの希望が入り混じった、優しい呪いのような感覚です。
あらかじめ失われた「ほんとうのこと」を求めてさまようのは、言葉を手にいれてしまった人間の基本的な習性です。この習性は不安や苦しみの原因にもなりますが、同時に創作欲や探究心の原動力にもなるものです。「熱」と化し、いまや失われてしまった夏という季節はこうした人間の習性を強く喚起するようです。
夏は嘘の季節です。夏を愛するということは、嘘を愛するということでもあります。そして嘘を愛するということは、人間を愛するということです。