日めくり5分哲学『自由の哲学』を読む 第一章8
少し「アタマ」を使って
命題について思索する5分間、
ホントの自由とは、何か…
問題なのは一度固めた決意を行動に移すことができるのかどうかなのではなく、どのようにして決意が私の中に生じるかなのである。
人間と他のすべての生物との相違は、人間の理性的な思考の力に基づいている。活動的であるのは人間に限ったことではない。人間の行動における自由を明確に概念化しようとして、動物界にその類比を求めても、何の役にも立たないのに、近代自然科学はそのような類比を好んで用いている。そして動物の中に人間の行動に似たものが見出せたとき、人間学にとっての最も重要な問いに触れたのだと信じている。このような考え方がどれ程大きな誤解を招くことになるか、パウル・レーの『意志の自由の幻想』(一八八五年)がその良い例を示している。
レーは自由に関してこの書(5頁)の中で次のように述べている。「石の運動が必然的に見え、ろばの欲求が必然的でないように見える理由は、簡単に説明がつく。石を動かす原因は外部にあり、眼で見ることができる。しかしろばに何かを欲しがらせる原因は内部にあり、眼には見えない。その原因が働く場所とわれわれとの間にはろばの頭蓋骨が介在している。……人の眼にはその因果関係が見えないので、そんなものは存在しない、と思っている。だから人は、(ろばの)欲求が向きを変えたことの原因であり、その欲求は無条件的に存在しており、それが絶対的な発端になっている、と説明している」。ここでも、自分の行動の根拠を意識化している人間の行為については何も語られていない。レーは、「その原因が働く場所とわれわれとの間には、ろばの頭蓋骨が介在している」と説明しているだけなのである。しかし行為と行為するわれわれとの間には意識化された動機が存在している。それがろばの行為にはないとしても、人間の行為にはあるということを、レーはまったく考えようとしていない。そのことは今述べた言葉からも推測できるが、さらにその数ページ後になると、彼はもっと決定的にこの点を表明している。——「われわれは、われわれの欲求を条件づけている原因を知覚してはいない。だから欲求が原因によって条件づけられていないと思っている」。
いずれにせよ、自由とは何かを全然知りもしないで、自由の理念に敵対している人の例はいくらでも存在するのである。
<命-1-8-1>どのようにして決意が私の中に生じるか
第一章9へつづく
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