日めくり5分哲学『自由の哲学』を読む 第十五章10
●一九一八年の新版のための補遺
本書の第二部においては、自由が人間の行動の中に実際に見出されることの理由を明らかにしようと試みた。そのために必要だったのは、とらわれずに自己を観察するときに、自由だと認められるような部分を人間の行動の全領域の中から取り出すことだった。そしてそのような行動部分とは理念的な直観内容を現実の中に移すような行動である。公正な眼でみれば、他のすべての行動は自由とは言えない。しかし公正な眼で自分を観察するとき、倫理的直観とその現実へ向けて努力する素質とが自分にもそなわっている、と誰でも思わざるを得ない。しかしそう思えたとしても、それだけでは自由についての最終決定を下すことはできない。なぜなら、その直観的思考が何らかの別の存在に由来するものであり、人間が自律的な存在でないのだとすれば、倫理的なものに由来する自由な意識などは幻想になってしまうであろうから。しかし本書の第二部は第一部によって基礎づけられており、第一部は直観的思考を人間に体験が可能な精神活動である、と述べている。思考のこの本性を体験的に理解することは、直観的思考の自由を認識することと同じである。そして思考が自由であることを知れば、自由な意識行為の範囲がどの程度のものかを理解するであろう。つまり直観的な思考体験によって内的経験に基礎をおく自律的な本性を生かすことができる限り、その人の行動は自由なのである。しかしそうでない限りは、自由を想定することはできないであろう。今述べた内的経験は意識の中に直観的思考が働いていることをよく知っている。直観的思考は意識の中だけに働くとは限らないけれども。いずれにせよ、この経験は直観内容に基づいた意識的な行為に自由という特徴を与えるのである。
<命題15-10>
第十五章11へつづく
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