『愛の美学』 Season3 エピソード 8 「愛の体力」(2316文字)
「愛の体力」とは、実際に性交をするには「体力」が必要だ、というような表面的なお話でない。確かに、少なくとも具体的な目合いには、体力を必要とするだろう。それだけではなく、子育てにしても、単なる観察を続けるにしても 「体力」は必要になる。
だが、このセクションでは、そのような単なる「体力」の力に焦点を当てるだけでなく、その周辺の関りを通して『愛』が欲する「体力」とは何かを検証していく。
日本語は「体」を表現する場合、「身体」や「肉体」という語彙がある。この二つは基本的に異なる。身体の体はより身に近く、肉体の体はより体に近いと言ってもよいだろう。よく体が資本と言われる。それはその通りで、体の調子は全てにおいて先行する。
体に変調が生じた場合は、さまざまな欲求の優先順位が変動し、体が最優先になる。
身近な例では、癌の告知をされた場合、その癌という病気に対してどう対処していけばよいか、それがどのような物事と比べても最優先事項になる、という具合である。
しかし、ついでに申し上げておくが、まさに、この姿が「人としての」「愛」の感覚を掴んでいる瞬間でもあるのだ。
どういうことか。
それは、自分の身近な肉体に生じたことを、身を挺して、我が身のことを診続けることになるからだ。
診察とは、ヒトの体を医学の視点を駆使してよく観察することである。つまり、大枠で言えば、これも「愛」であり、本質的な「愛」の行為であるともいえる。
やや擬人的な表現になるが、自分の身体を自分自身が診る、ということだ。そうすることで、自分のメンテナンスをしていくこと。これ自体が「愛」の行為ということになる。
「愛の体力」とは、その力の方ばかりに目が行きがちになるが、身体の体力として全体を通した「愛の体力」について語っていこうと思う。
「愛」は総体として、どのようなエネルギーを有しているのだろうか。このような質問をしたところで、その質問の意図さえも分からず、適切な答えが返ってくるはずもないと思われるかもしれない。
しかし、愛には力が必要なのだ。それは既に「愛の活力」のところで触れた。
「こころの立体モデル」を参照すれば、直ぐにお分かりいただけると思うが、「活力」を生み出す大元となるのがこの「体」を為している「力」であるという構図である。
そもそも、この「力」を巡らせている、その巡り自体が愛のチカラである、と言っても過言ではない。この巡りは、図からもわかるように、時計回りの方向で巡っている。
この巡りは最終的な感情の流れや、モノが巡る「物流」にも関係してくる。感情の流れは、ある意味時計回り。痛みのことも検証する必要がある。それは、左右の境界、とくに個々人の左右領域の境界に際して、そこに肉体的な刺激が生じた時にそれは、モナド(単一の個体)として感じ取れる という、四象限の上位二つ(個々人の内面と外面)の間のみに関係する動きを示すからである。
つまり四象限の下位(集団)と大きく異なる振る舞いをすることである。
何が生じるかというと、本人(個々人)がその痛みを誰かに伝え、「四象限の第三象限(③)」を経ない限り、この四象限は巡らないということである。
つまり「痛い」と口で言うか、あるいはそれを何らかの形で集団へ表現する必要がでてくる(集団へのアクション)。自分の中で自己完結させるのは、痛みの刺激で「痛い」という感情波が、「感の面」を揺さぶるが、その波動は上位しかも「私/主観」の部分にしか感じ取れないという制約がある。
この例は、疼痛を主体に考察すると分かりやすい。「痛み」は身近な刺激であり、この痛みという感覚や、さらにそれをマイルドにした触れるという感覚から、私たちは様々な反応を得ている。
つまり、この領域は、「肉体」から「身体」への移行部分と、それから「精神」の「精」の部分への移行に関わっているということになる。
こころの立体モデルでも分かるように、その部分の「感の面」に関与するところそのものが、「体力」の部分である。
ここで、思考実験をしてみよう。
体力を増強するにはどうしたらよいのか。その答えに、相当の人が、筋トレをしたり、トレーニングを通して筋力をアップすると答えるだろう。
その通りである。筋力の増強は、体力をアップさせる。簡単な理屈である。
その理屈は、生理学的な結果からも明らかではある。ただ、視点をその体力を増強させている、あるいはトレーニングをしているときに感じる感覚。筋肉に係る刺激感や、トレーニングに際しての重量感、苦痛感、そのような全ての感覚を感じるところ、それが「愛の体力」の本体であるということだ。
どのようなモチベーションでそのトレーニングをしているのか。その価値や動機付けが、その個人にどのようにもたらされるのか。
先ほど、物流の話をした。生理学とは物流である。必要なエネルギーを組織に送り、そして仕上がるモノを利用して生態や命を動かし続けている仕組みである。
この仕組みがあるからこそ、そこに生じる反応を得ることができる。この仕組みについて、次の「愛の真理」で触れることにしよう。