日めくり5分哲学『自由の哲学』を読む 第十二章5
道徳的に行動するためには、行動範囲の諸事情をよく知っていなければならないが、特によく知っておく必要があるのは、自然の法則である。必要なのは自然科学の知識であって、倫理学の知識ではない。
道徳的想像力と道徳的理念能力とは、それらが個人によって生み出された後にならなければ、知識の対象にはなり得ない。しかしそうなった後では、もはや生活を規定しない。すでにそれを規定している。それらは他の一切の諸原因と同じような作用する原因として理解されねばならない。(それらの原因を目的として捉えるのは、もっぱら主観だけである。)われわれは道徳的表象内容の自然学を問題にしているのである。
その場合規範の学びとしての倫理学は存在し得ない。
倫理学を栄養学の意味で理解し、道徳法則の規範的性格をその意味で説明しようとする学者もいる。つまり栄養学のように、生体の生活条件から一般規則を引き出し、それを基礎にして身体への働きかけを行おうとする(パウルセン『倫理学体系』)。しかし倫理学を栄養学と比較するのは間違っている。なぜならわれわれの道徳生活は生体のいとなみと比較できるようなものではないからである。生体の働きはわれわれの干渉なしにも存在する。生体の法則はすでに出来上がったものとして働いている。だからそれを見つけ出して利用するだけでよい。けれども道徳の法則はまずわれわれがそれを作り出さねばならない。それが作り出される以前には、それを通用させられない。この点で誤解が生じるのは、道徳法則の場合にその都度新たな内容が作り出されるのではなく、受け継がれてもいくからである。祖先から受け継がれてきたものは、生体の自然法則と同じように、あらかじめ与えられているかのように見える。けれどもそれは決して栄養上の規則と同じような仕方で、先祖から子孫へと伝えられるのではない。なぜならそれは個々の人間に関わっていくものであって、種族全体の規範として自然法則のように働くのではないからである。生体としての私であれば、そのような種族の一例なのだから、種族の自然法則が適用されるとき、私という生体は自然に適った生活をするであろう。しかし道徳的存在としての私は個体であり、私固有の法則に従っているのである。
註 パウルセン(上掲書一五頁)は述べている。『異なる自然存在は異なる生活条件に応じて異なる身体上並びに精神=道徳上の養分を必要としている』。ここでの彼は正しい認識のすぐそばまで来ているのに、決定的な点にまでは達していない。私は個体である限り、そのような養分などを必要としていない。養生法は個を類の一般法則に合致させるための技術である。しかし個人としての私は類の一例ではない。
<命題12-5>
第十二章6へつづく
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