私の「はたらく」ができるまで。自己紹介のようなもの含む。
はじめに。
まずは自分のことを書いておく必要がある、と思ったので書きます。
頭ボサボサの写真を添えて(笑)。
「書こう!」と思ったのは、今やっていることに加え、ある取組みを増やす為です。
その取組みとは、次のようなものを構想しています。
これだけだと「なんのこっちゃ」だと思いますが(笑)
端的に言えば、「イイ感じのはたらく」を構築している人に、そこへ至るまでの思考過程、当時の状況、(あるのであれば)転換点となる出来事、出来事への解釈、意思決定、行動、現在までのストーリー、等を聴いていく取り組みを始めたいと思います。
なぜ?
それは、「イイ感じのはたらく」は誰にでも実現可能だと信じているのですが、そこに至るには、現在の社会構造上、ある種の「勇気」みたいなものが必要な場合もあったりします。
だから、人によっては、時として、「転換点となる出来事」や「痛みとも呼べる体験」などを通して「新たな気付き」が生まれ、そこ(イイ感じのはたらく)へ至ることも往々にしてある、と感じます。
それら、人生の岐路とも言える「何か」に対する呼び方は何でもいいんですが、これまで多くの人の「働くこと」に関する相談にのってきて思うのは、もっと軽やかに「その人にとってのイイ感じのはたらく」が整う仕組み、みたいなものはないのだろうか、ということです。
そもそも、「イイ感じのはたらく」ってなんやねん!そんなツッコミもあるでしょうが、詳しいことは後述します。
もちろん、「イイ感じのはたらく」、それだけがベストと考えている訳でもありません。でも、選択肢に惹かれたらそっちに行ける、そんな道は耕したい、とも思います。
また、人それぞれに置かれた状況、感じ方、価値観等が異なる為、「全く同じ道筋」はあり得ないのですが、「はたらくをイイ感じにしたい」ときに対峙する事柄として、共通項はあるのでは?と考えています。
だから、その過程にある要素を抽出したい。そして、可能な限り整理して、一般化してみたい。
と現時点では思っています。
というこの取り組みは、「記事」という形でアウトプットしようと思っているんですが、私の書いたものを見た人が、その人オリジナルの「はたらく」をつくるキッカケとなったら素敵、と考えています。
ひょっとしたら、それはきっと、たのしい「はたらく」に近づくかもしれないし。
もしくは、おもしろい「はたらく」となるかもしれないし。
なんなら、納得した「いきる」にもつながるかもしれない。
私も「働く」ということに散々迷い、右往左往した過去があります。
あの時。
気軽に、ゆるーく、「はたらく」に関するあらゆる事柄を相談できる場所があったらなぁ。
「イイ感じのはたらく」が揃っている場所があったらなぁ。
ほんで、自分オリジナルの「はたらく」をデザインするヒントなんかが得られたらなぁ…。
この取り組みを始めようと思った背景には、それらの想いがあります。
つらつらと書いてきましたが、冒頭の取組みを始めるにあたり、だったら自分のことも書いておかないと!と思ったのです。
なお、この取り組みを始めようと思えた背景には、私の周りに増え始めた「変な人たち」の存在もあります。「変」というと誤解を生みそうですが、100%肯定的な意味での「変」です。
うん、説明が難しい。
何というか、「変」に対する閾値、とでも言いますか、それが高まっている人が増えている気がします。私の周りだけでしょうか(笑)
それは、オリジナルの、その人固有の「いきる」が輝いている状態とも言えるのかもしれません。
だから、既存の社会一般の価値観からすれば「変」に映るけど、とても愛すべき人たちで、素敵です。
そう思わせてくれた出会いに感謝しながら。
こんな特徴があります。
この「自己紹介のようなもの」は長くなりそうです。なぜなら、ほぼ推敲をせず、思ったことを思ったままに綴り、noteへupするからです。
随筆?感想文?ポエム?エッセイ?世間一般での分類がなんなのかは知りませんが、とりあえず、どこからかやってくる言葉たちを手に宿し、書く、という行為に集中しようと思っています。
本当は「人間くさい私」が、今、この瞬間だけは、機械論的な動きをする何か、のようでもあるから面白いです。
でも、人間くさい、とはどういう意味でしょう。本当は、山の奥でひっそりと、葉っぱが揺れるのを眺めていたり、木々がゆらゆらしている様をぼーっと見ていたり、たまたま見つけた石をつついてみたりする。私は、もともとは、そういう人間です。
池にポチャンと小石を投げると広がる波紋。そういうのを見て「あぁー」と思う。その瞬間の、「あぁー」という“あの感じ”が好きな人間です。
そして、この「あの感じ」を言葉にしたくない、言葉にした瞬間に「言葉でしか表現できない何か」になってしまうが故、言葉になる前の「 」を、そのままの状態で味わっていたいと思う。そんな人間です。
でも、だからこそ、「言葉」をとても大切にしたいとも思います。だから、「書く」ことは好きです。
散歩なんかした日は大変です。
散歩をしていて、知らない道を見つけると、「さぁグングン進んでみましょう!大丈夫よ!」という女神的な好奇心と、「これ以上いったらヤバイっしょ!明らかに獣道でっせ旦那!」という田舎風情の男神的な感情が同居し、私の中でイイ感じに佇んでいらっしゃる。
それに対し、「だって足が勝手に歩くんだもん」と、子どものようなことを言い、また、言い聞かせながら、進んでいく。獣の足跡があってもお構い無しに。
そして、しばらく歩き、ふと足元に目を向けると、雨粒が葉っぱに乗っかっている光景が目に飛び込んできたりします。
その瞬間、誰に見られるでもなく、誰かに見られることを目的とせず、ただそこに存在していた雨粒たちが愛おしく思えます。
補足しておきますと、現在携わっている複数の取り組みは、比較的「論理」に重きを置いたものも多い為、この取り組みでは「感性」を爆発させてゆこうと思います。
こういう「係」です。
私のような人は詩でも作って、読んで、燃やして、風に吹かれていれば良い、と思ったりもするものの、しかし、今、私はなぜかすごく「思う」ことがあります。
それは、こうです。
なぜか、標語のように、今の私はこの言葉を大切にしています。
漢字でも、英語でもない。ひらがなの、この感じです。
誰に言われた訳でもなく、頼まれた訳でもありません。
ただただ、なんとなく、そう思うんです。
強いて「そう思う」理由を考えてみれば、それは、私のこれまでを振り返ると、「これだろう」という感触があるだけで、おそらく、先の標語のようなものを語るに「私のこれまで」は十分に資格があり、適任であり、ハマリ役だろう、ということです。
とは言え、大きな勘違いかもしれず(というか人生の大部分は壮大な勘違いだとすら思うんですが笑)、そういう「設定」としておきたいと思います。もしくは「仮決め」しておこうと思います。
よって、「いやいや私こそが適任だ!」という方に出会ったら、私は喜んで「どうぞどうぞ」と道を譲るでしょう。そして、1人、温かい茶でも飲み、日向ぼっこに戻るでしょう。
言葉では色々と表現できるでしょうが、「係」であり、「役目」であり、「役割」であり、「天職」であり、「天命」であり、「使命」です。表現は何でもよいです。その人がしっくりくるものを選べばよいでしょう。
私としては、それらの言葉ごとに感じる匂いみたいなものがあまりしっくりこず、「そういうこと」という感触だけがあります。
強いて選ぶなら、私としては、「役割」「係」という言葉を選びたいです。
よって、この世界における現時点の自分の役割は、「はたらくことを、ゆるめ、たのしく、おもしろくする係」としたいです。これは時が経てば変わるでしょう。
なんと抽象的でしょうか。でも、小学校の時の〇〇係のようで、なんか良いではないか、とも思います。
そう言えば、最近、色んな人の「働くこと」の相談にのっていると、その人固有の役割、係、なるものがあるように思える時があります。何かしらのバイアスがかかっているのでは?と思い、膝をつねってからもう1度接してみても、そう思う時があります。
それは、「働くこと」だけでなく、その人の人生ストーリー全体から「働く」という点にフォーカスを当てたり、俯瞰したり、そのように観ていると、一見、相関関係がなさそうだけど、その人の人生にて生起した「あるもの」と「あるもの」が繋がっており、紐解き、1本の線にすると、「これを体験したいんじゃん?」とか「そっちかもね!」と思えることがあります。
そして、結局、本人としては、最初は抗ってみたり、紆余曲折あったとしても、その道を進むことになったりすることもあるから面白いもんです。
それ(その人固有の役割、係)は、いわゆる現在の社会における「仕事」である場合もありますし、「そうでない」場合もあります。私はどっちでも良いと思うんですが。
なお、これは、「はたらく」という言葉が及ぶ射程をどの程度設定するのか?という問題と相関するんでしょうが、私としては、現時点では「はたらく=いきる」という定義でいる為、その人固有の役割が「仕事」でない場合も当然あることと符合します。
とは言え、本人が「仕事」として成立しないと納得しないケースも多いですよね。その場合の1つの工夫として、「はたらく」を分解し、後に統合する、というアプローチもあるとは思っています。
こんな世界観、温度感の人と一緒にいたい
さて、何が言いたいかと言えば、「はたらくことって、たのしい、おもしろい!!」という世界に浸っていたい。
いや、私自身の現在がどうかと言えば、充分に「はたらくこと」は、たのしいです。
だから、もっと(笑)
つまり、「はたらくって喜び!!」そんな「いきる」「はたらく」という世界観を、眉間にシワ寄せ難しく考えるのでなく、ゆるーく共創したいんです。1人じゃできないから。
ここは強調しておきましょう。
みたいです。
割と1人プレーを好む体質の私は、この1年間、色々試してやってみたんですが、どうも「この係」は1人ではできないらしいのです。
なので、素直にお願いさせて頂くんですが、一緒に、力を貸して頂きたい。というか、既に力を貸して頂き、現在進行形で共創して頂いている仲間のみなさんにはこの場を借り、改めて御礼を申し上げたいです。
ありがとうございます!!!
さて、方向性はこうです。
「働き方」「生き方」みたいな表現も素敵ですが、そういう固定的な感じではなく、
を、増やしていきたい。一緒につくっていきたい。
その結果、その人が「はたらく=いきる」について心底「納得」している、なんなら誰もいない小道で2、3歩スキップしちゃう、そんな人を増やしたいし、一緒にいたい。
そういう方向性です。
後述しますが、この1年間は、今まで「組織(to=B)」をさんざん探究してきた過去とは少し様相を変え、今まで以上に「個人(to=C)」という視点で「働くことに関する相談」に乗ってきました。
「A×B=答え」みたいな、方程式というか、HOWTOというか、仕組み、みたいなものができないものか、無い知恵を絞り、試行錯誤してきました。
時には、「Work Design Camp」と題して、合宿形式で「働くこと」を深掘りするイベントも開催させて頂きました。
※イベントは、オンラインイベント、リアルイベント(合宿)と複数開催。
もう少し解像度を上げて言えば、今の“働く”という行為を見直したいと思い模索している、という課題感をもつとします。
その際、どのような視点に留意し、アプローチしていけば、その人の「働く」は納得感をもつものになるのか?
それは、既存の社会構造とも密接に関係している訳ですが、それも踏まえて「方法論」「仕組み」を用いて解決する、ということです。
社会に、「働くことを整える仕組み」や「働くことを見直す仕組み」なるものが、あらゆる視点を一気通貫で包摂し、存在していれば良いのですが、私の知る限り、存在しません。というか存在するのは難しいでしょう。
なぜなら、粒度が異なる要素を同時に扱わなくてはならず、まして、一般解なるものが存在しない領域でもあり、ある程度の内省も必要で、非常に時間効率が悪く、ビジネスにもなりにくい為です。
なんなら、一旦出した答えも流動的な性質を帯びるものであり、それをもフォローしようと思うと、とても大変だし、伴走者がいる場合であれば、下手をすると依存関係にすらなり得るでしょう。
何だか、こうやって書いているだけで大変ですし、私はそれはやりたくない(笑)
だから、存在するのは、既存の社会構造を前提にした、ある種、限定的な方法論です。
具体的に言えば、「よし働くことを一旦立ち止まって考えよう」と思うとします。
すると、「転職か?副業の為のスキルを得るか?」のように思考が進み、「よし!スキルアップだ!」とか「転職エージェントへ行こう!」という行動に着地します。
そう、つまり、ある意味、その人の細かなバックグラウンドは排除した形で、ある一定の枠内に収まる方向性で、サービスや方法論がある、という全体像です。
もちろん、それで、その人がハッピーなら全く問題ありませんし、応援したいと思います。というか、既存の社会構造上では、むしろちゃんとしている人で素晴らしいでしょう(笑)
それに、“ビジネス的”にも「そっち」が正解でしょう。
具体的であり、範囲は狭く、分かりやすい、だから刺さる。というか、ある程度範囲を絞らなければ誰にもささらない、とも言えますし。
でも、私が浸っていたい温度感の「はたらく」「いきる」とはそっち方向なのか?と考えると、少なくとも、もう少し、範囲を広げる方がしっくりきます。
つまり、意図的に抽象度を上げる必要がある、と思います。
先の選択肢以外にも、内発的なエネルギー源で「はたらく」を構築できる選択肢が仮にあるとしたら?
「こっちかも!!!」みたいな「感性」「感覚」を軸に構築される「はたらく」があったらとしたら?
それらの要素が言語化されていたり、実例として触れることができ、体現している人の存在を認識できたとしたら?
みたいに並列で、選択肢として並んでいるとしたら?
色んなパーツを組み合わせることで、その人オリジナルの、納得した「はたらく」が出来上がるとしたら?
もちろん、「そんなものが誰にでも絶対にある」とは断言しません。仮にあったとしても、1人1人異なる形であるはずです。
青い鳥のようなものを追いかけるな、なんて視点もあるでしょう。だから、冷静に、社会実装の手段も含め、その人の置かれた状況を踏まえ、検討する姿勢は必要です。
でも、考えてみてほしいです。2人のおじさんがいたとします。
そんな2人のおじさんがいたら、私は、おそらく、後者のおじさんの手をギュッと握ります。私が見たいのは後者のおじさんの世界線です。
もちろん、前者のおじさんも、後者のおじさんも、どっちも素敵です。
でも、「私」が見たいのは後者のおじさんと歩む世界です。
きっと、そのおじさんの「てのひら」は温かく、なんならちょっと汗ばんでいる。そして、そのおじさんの目は、人生を1周して子供に戻ったような、そんな目をしている気がします。
私は、後者のおじさんに、私が存在したい世界へつながる「意志」を感じます。意志は意味を生みます。
だから、言い方が非常に難しいのですが、既存の社会構造を前提とした大枠の中での「最適解」を具体的な方法論や仕組みを用いて説明する、というニュアンスよりも、もっと、1人1人に焦点をあて、その人の内側から滲み出てくるような何かをもとに「はたらく」が形付けられる方向性で模索したい、と思います。
その結果、「はたらく」と「いきる」が分離せず、しっかり繋がっており、本人が「納得している」形を保ちながらも、1人1人の味わいが表出される状態として体現される。そんな方向性です。
その為に、そのような「はたらく」に至る、小さな1つのキッカケとして、冒頭の本取組みを据えたいと思います。
「その場所に行ったり」「そこにいる人と話したり」「そこにある言葉に触れたりする」と、「その人にとってのイイ感じのはたらく」が整う。気付きが生まれる。転換点となる。
人それぞれの形でカスタマイズされ、オーダーメイドで「はたらく」が「つくられる」。そんな方向性、温度感、ニュアンスです。
その為に必要なものは、
といった要素を挙げることができるでしょう。
そして、それらをなるべく「具体的な形」で、つまり、可視化、言語化したいのです。でないと、ただのポエムです。ポエムもめっちゃ素敵ですが(笑)。
そういう意味で、現時点で行っている取組みに加え、これから行う「あの人の"はたらく"ができるまで」も、その1つとして追加したいと思います。
「はたらく」をイイ感じにする為にやってきたこと、この先にやること
このような疑問を、全ての「働いている」人に聴いて回りたいのですが、現実をみると、なぜか、面白く愉しそうに働いている人がいる一方、つまらなさそうに働いている人もいます。これは事実です。
なぜでしょう?
学校では、それらに対する問いの設定の仕方、問いへの向き合い方等は教えてくれぬまま、社会とやらに放り出されます。
その一方、「働く」という行為は人生において長く、割と属人的な事柄、個人的な営み、という側面があります。
私自身を振り返れば、時には、それらに何とか自分なりに答えを出そうと、色々と行動してきました。具体的に言えば、次のようなことです。
挙げればキリがないのですが、そのようなことをしてきました。
先にも述べましたが、「その人にとってのイイ感じのはたらく」という抽象度においては、「一般解」は存在しづらいです。
ある程度の抽象度を維持しつつ、具体的に役立つような、ちょうどいい感じのアプローチはないものか?
さんざん考え、調べた挙句、先日、散歩している時に、ふと「そうだ、みんなに聞けばいいんじゃん」と思いました。
「そうだ、牛乳買わなきゃ」の時と同じテンションです。
よって、当面は、私の完全なる主観、かつ、ご縁のある人に限定されてしまうのですが、「この人の“はたらく”ってイイ感じだなー」と感じる人や、「そうそう、はたらくが整う過程ってそういうことあるよね!」という体験をしていそうな人たちに聴いて回りたいと思っています。
何を?
その人の現在の「はたらく」が構築されるまでの、思考過程、当時の状況、(あるのであれば)転換となる出来事、出来事への解釈、意思決定、行動、その人固有の人生ストーリー等を。
そこには、何か、普遍的とまでは言いませんが、誰にでも当てはまる「共通のこと」があるのではないか、という仮説を持っています。
そして、多様な人たちの「はたらく」を様々な角度から紐解いていき、その温度に触れた人は、「私はこの人の考え方が良い」とか「同じような出来事が起こった時、こう解釈している人がいる」とか「こんな感じの“はたらく”も有りなの?」等と、「具体的な形」「多様な実例」「解像度が高い状態」として輪郭を帯びてくるのではないか、と考えています。
少なくとも、先に挙げた抽象度を維持したまま、具体的なアクションにつながる、起点として位置できるのではないか。現時点では、そう考えています。
よって、是非、ご縁のある方は、「はたらく」を属人的なものから少し緩め、開いてほしいのです。
あなたの「はたらく」が、誰かの「はたらく」に繋がり、あなたの「はたらく」がある人の「はたらく」に灯りを灯すかもしれません。
それぞれが固有の在り方で存在しつつも、全体でみると今より美しく、調和がとれた社会に近づく。そんな、小さいけど、大きい一石になるかもしれません。
あ、もちろん、それに触れる側(実例を見る側)の人は、それを活かしてもいいし、活かさなくてもいいと思います。それは、触れた人次第です。
私の「働く」体験
そう言えば、私が初めて「働いた」のはいつだろう。
「雇用契約を締結」し、「労働法」でいう「指揮命令下」におかれ、「賃金を得る」、という意味で言えば、高校生の時です。
書店でアルバイトをしました。
その時のことは鮮明に覚えています。
本をダンボールから取り出し、書棚へ並べました。それを5時間行い、「時給×5時間分の賃金」を得ました。
この時、「働くってすごい!お金がもらえた!」という想いと、「自分の時間がお金に変換されることって何か変!」という微かな違和感がありました。
最初は「働けば働いた分だけお金を得られる!すごーい!」という思いが強く、なんならその仕組みに感動したとも言えます。
しかし、何かフィット感が無い、というか、これをひたすら繰り返すことを大人たちは「働く」と呼んでいるのだろうか?とも思いました。
もちろん、そう思った背景には、当時の私自身における「働くこと」における「報酬の定義」、この幅の狭さが原因でもある訳ですが。
だから、その後、色々なアルバイトを体験してみました。
世の中には、様々な業界があり、多様な「働く」があり、私は未体験な事柄が多いから「もっとこう、イイ感じの“はたらく”というものがあるんだろう」と思ったからです。
大学卒業まで、とにかく様々なアルバイトをしてみました。
常時3つくらいアルバイトを掛け持ってたでしょうか。だから、大学生活では、学校よりも「職場」で多くの時間を過ごしました。
そのお陰で、大学4年生では2単位足りず留年し、内定していた法律事務所は内定取消になりましたが(笑)桜が綺麗に咲いている季節でした。
留年及び内定取消という現実に直面し、数日間、大きく落ち込んだものの、「まぁ1科目4単位なのに、2単位だけ落とすって逆に奇跡!!」と自分を励まし、切り替えました。親は激怒していましたが(笑)
それは、大学受験に失敗し、浪人生だった頃、「よし!1年間の自由な時間ができたぞ!」という、あの時の感覚と似ていました。
しかし、人間万事塞翁が馬、とはよく言ったもので、その後、月日は経ち、ひょんなことから受けた面接で、「君、留年しちゃってんの?面白いじゃーん♪」という、とある社会保険労務士法人の代表の一言で「社会保険労務士」という「働くことの専門家」の道に進むことになったのだから、まぁよしとしましょう。
留年せず、あのまま法律事務所に就職していれば、この道に進むことは無かったかもしれません。
そして、入社後すぐに「支社の立ち上げ」を任命頂き、自由に、そして厳しく、愛ある接し方をしてもらいました。
その後も様々な経験を積ませて頂き、資格も取得させて頂きました。だから、この時お世話になった事務所の代表は私の恩師であり、今でも本当に大好きです。
アルバイトはどのようなことをしたでしょう。パッと思い出せるものは、次のものです。
今思い起こすだけでも、大学生の時は結構な数のアルバイトをしましたね(笑)
渋谷駅前の焼き鳥店では、酔っ払いのゲロをふき、厨房の板前からはトマトを本気で投げられました。
港湾現場では、知らない外国人と共に、バナナをベルトコンベアに積む作業をひたすら8時間行いました。あの時、「バナナを積む為に生まれてきた訳じゃない!!」と強烈に思ったもんです。
建設現場で出会った歌舞伎町のホストは、キャバクラに勤める彼女と結婚する為にお金を貯めていると言い、年下の私を自宅に泊めてくれました。とても親切な人でした。
思い返せば、数多くの出会いと別れ、そして思い出があります。
一般的な大学生ができそうなものは片っ端から「体験」しようと思い、必然的に雇用形態も多岐に渡り、日雇い、アルバイト、派遣社員、契約社員、と様々でした。
その後、社会人になってからは、1度転職して、正社員として次の2社に勤務しました。
いずれも、「働くこと」に携わってきました。
通算200名以上の経営者と会い、「働き方」「経営という観点からどう働いてもらうか」「雇用契約や就業規則」「入社から退社までに起こる人事労務問題」など、多様な実例に触れることができました。
そして、経営者のみならず、役員、人事担当者と一緒に考える経験を積ませて頂きました。
そして、ある時。「外」からアドバイスする立場だけでなく、「実際はどうなの?」という部分を体感したくなり、自分も「内」から、人事部として働こうと思い、転職しました。
転職先では、業務は細かく切り分けられており、「大企業ってこーゆーもの!」という経験と、グループ会社のみならず、地方に点在する支社も全て統括する「本部人事部」に配属され、「泥臭い業務」も経験させて頂きました。
「独立」から「手放す」まで
その後、独立しました。
独立前後のことを振り返えれば、当時の私は意欲に溢れ、充実し、目をキラキラさせながら「よし!独立するぞー!!」という状況には全く無かった、です。
むしろ、その正反対。
正直に言うと、働くことが心底、嫌になっちゃっていました。
あれだけ「働くこと」を肯定的に捉えたくて、様々な体験を重ねてきた結果、なんと、失望していたんです。
簡単に「失望」と書きましたが、当時は心の底から失望しており、「働くこと」から派生する、あらゆる負の感情を「これでもか!」というほど、時間をかけてしっかり味わざるを得ない日々を過ごしていました。
その結果。
「そうか。私には、働くことが向いていない」とも思いました。この時期は非常に辛かったです。
そしてそれは、「そもそもなぜ働くのか?」という疑問に移っていき、そこから「なぜ生きるのか?」という、実存的な問いにまで移行し、それらにもすぐには自分なりの答えが出ず、長々と対峙していました。
今ならその問いの設定自体に難あり、とよーく分かるのですが、その問いに対する自分なりの意味付け、腹落ちをするまでに、2年半、という時間を要しました。
そして、ものすごく消極的、というか、あらゆることが上手くいかず、強制終了されていくなか、「もう全て、本当に全て諦めた」という思いに至った後、独立しました。
というか、独立する選択肢しか残っていなかった(笑)
最初は、周囲の助言や「大企業なのにもったいない」みたいなものに同調していたものの、最終的には、自分の身体が納得しなかったんですね。
独立当初は、お客さんもおらず、スーパーのレジ打ちをしながらのスタートでした。
独立当初は、「このまま行くと一生アルバイトじゃない?」という不安しかない日々でした。
だから、「3年経っても前職の給与額に届かなければ、もう1度就職しよう」と決めました。
しかし、その後、徐々に本業に注力できるようになり、アルバイトはやめることができました。
このように、個人事業主、法人経営、へと至る訳ですが、独立から8年間経った時。非常に順調だったそれらの大部分を手放しました。
このまま進むのではなく、一旦余白が必要である、と感じた為です。それは売上を大幅に減らすことであり、スタッフさん、既存のお客さん、今後のこと等、各方面で調整する必要のあることでもありました。
もちろん、いままでの仕事の繋がりでご縁がうまれた人たち(具体的に言えば、弁護士、公認会計士、司法書士、税理士、行政書士、社会保険労務士など、といわゆる「専門職」の人たちや、企業経営者、役員、人事担当者の方々)とは、今でも仲良くして頂けています。
本当に懐の深い、理解のある、温かい人たちに恵まれたと思います。
そのおかげで、大きく空いた余白部分に、今現在行っている各取り組みがスムーズに入ってきました。そして、それらの各取り組みは、以前の仕事内容、働き方よりも、フィット感があります。
だから、独立前後の時に感じた「働くことに向いてない」というドン底時代とは比べものにならないくらい、今は「はたらくこと」がたのしいです(笑)
1本の糸を通す。
自分のことをこのように書いてくると、「働く」がキーワードのようにも聞こえそうですが、全くそうではありません。
現実は、そのように分かりやすい感じではなく、あっちに行っては違うと思い、こっちに行ってはまた戻り、みたいなことを散々繰り返してきました。
そして、ぐちゃぐちゃに絡まった糸を丁寧に紐解き、1つの線にする。ブレにブレている時代も踏まえ、「はたらく」というキーワードで筋を通すと、こんな感じ、という表現が近いかもしれません。
「はたらく」とは、流動的、かつ、継続的な営みのことであると思っています。
だから、その人オリジナルの「はたらく」が整う間、なんなら整った後も、当然、色々なことが起こります。起こるんですが、その過程をも愉しみ味わえるような、納得感を伴う「はたらく」を構築できたら素敵だとも思います。
主体的、内発的な何かが起点となり、具体的な、現実レベルでの「仕事」として表現できたら更に納得感は増すでしょう。
そうやって構築された状態における「仕事」は、おそらく、
そんなことが垣間見える、少し「開かれた」形であり、自ずと「交流」を伴うものになると思います。
そして、それは、次のように形容できるかもしれません。
とは言え、「働くことは賃金を得る手段にしかなり得ない」という意見もありますよね。それはそれで素敵だと思います。
どのような「はたらく」であっても、その人自身が腹の底から納得しているものなら応援したいと思いますし、あらゆる「はたらく」があって然るべきだと思います。
無論、今まで書いてきたこのようなことに全く同意しない人たちの「はたらく」も素晴らしく、愛くるしいことは言うまでもありません。