愛亀のフカフカお昼寝と、読書をする飼い主の、幸せ秋晴れ日曜日。
そうなんです。天使なんです。(まだ何も言っていない。)
愛亀は、お気に入りの、小型犬用毛布に包まれて、3時間のお昼寝。その間に、薬局とパン屋に寄って、灯油を買いに行けるくらい、本日も快調に、爆睡していた。
亀は、「ふかふか」な物質が苦手らしい。確かに、自然界のどこを見渡しても、ドギーマン製の毛布が落ちていることはないし、あれほど、見通しの悪いところで眠るなんて、「さあ 眠りなさ~い」ならぬ、「さあ 召し上がりなさ~い」という、捕食者へ捧げるララバイに、なりかねない。
しかしながら、警戒心を、ミシシッピ川に、白線流しした愛亀は、女子高生に負けず劣らずの「ふかふか」ラバーに成長している。
そんな我が子(亀)のお昼寝タイムに、ゆっくり、読書をすることが出来た。(別に寝ていなくても、本は読めるではないか。という異議申し立ては、棄却。)
昔から、唯川恵先生の大ファンで、今でも、30冊以上の本を所蔵している。唯川恵先生の作品を、初めて読んだのは、大学2年生のとき。当時の、彼氏との関係に、小さな違和感を、覚え始めたころだった。
わたしは、とにかく、「さよなら」が下手な人生だった。(まだ終わっていない。)ヒトや環境に、違和感を感じても、そこから自分を切り離すことが、出来ない人生だった。(諦めないで、まだ生きている。)
ゴミなら、すぐに捨てちゃえばいいのに。と自戒を込めて、ふらっと立ち寄った書店で、「さよならをするために」という短編小説を手に取ったのが、唯川作品との、最初の出会いとなった。
恋が壊れていく過程を、細やかに描写した5つの短編集で、さまざまな、終わりと、再生への物語が、紡がれていた。唯川先生の恋愛小説は、世間一般の「幸せ」という型に収まる、フィナーレは少ない。むしろ、わたしの記憶にはない。
その当時、「さよなら」行きのバスに、飛び乗ることが、幸せへの最短経路だと、頭では分かっていながら、suicaの残高不足を理由に、乗車拒否を正当化していた。
そんなとき、突き動かされるような強い意志でも、周りからの同調圧力でもなく、自分ひとりで、迷い、立ち止まり、ときに、後退りしながらも、「さよなら」行きの路線バスに乗る、5つの物語を読んだ。
あまりにも、そこに描き出された「さよなら」が美しすぎて、その選択が持つ潔さと、その潔さには程遠い自分に、行き場のない憤怒を覚えて、泣きながら、その本を、ビリビリに破り捨てたことを、鮮明に思い出す。(唯川先生、ごめんなさい。)
大学の卒業とともに、その当時集めていた本は、すべて処分してしまった。(ゴミ彼氏は、処分出来ないまま。さあ、眠りなさ~い。)
今、所有している30冊の本は、そのほとんどが、2度目の購入になる。今はもう、ビリビリに破るような、ドラマチックな、ララバイは歌わない。なにより、亀しか、愛していない。
潔さも、往生際も、要領も、良くない。そんな人間だって、当たり前に、人を好きになって、嫌いになって、嫌いになられて、また、好きになって、分かりやすい「幸せ」を、夢見る権利はある。そんなメッセージが込められた(と解釈している)、唯川先生の作品が、今も、昔も、好きだった。
韓国ドラマばかり見ていないで、活字を読もう。イ・ドンウクに、デレデレして、パク・ソジュンに、ホレボレしている、今のわたしには、唯川作品が必要だ。(大人になった。)
もちろん、破り捨てるような、トッポッキ仕立ての、ララバイは、もう歌わない。