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京うつくし図鑑-11《日本映画の原点・立誠小学校》ー映画の聖地、京都
映画は人類にもたらした最も美しい革命である
映画を一度も見たことがない人は、世界に一人でもいるだろうか。映画の発明は人類の文化的発展はもとより、考えられないほどの経済効果をもたらしているだろう。産業革命と比べてどうかはわからないが、革命的発展であることに異論はないはずだ。
それは1895年にフランスのリュミエール兄弟が開発した映像装置「シネマトグラフ(cinématographe)」がすべてのはじまりである。撮影、映写、そして現像ができる装置。それがスクリーンに動く映像を映写する映画の基本的形式となった。リュミエール兄弟はトーマス・エジソンのキネトスコープなどの映像装置を研究してシネマトグラフを開発。そして1895年2月13日に特許が交付され、3月22日にはすでにパリの国立工業奨励協会で最初の上映が行われた。世界ではじめて映画が誕生した瞬間である。映画100年の年に、ドキュメンタリ番組が映画の父、リュミエール兄弟を紹介し、はじめて映像をみた人たちの衝撃的な表情が映し出されていた。それから100有余年、人類はあたりまえのように映画を楽しんでいる。文化、教育、娯楽、報道、各創造的分野…映画の影響は宇宙的規模だ。映画は人類にもたらした最上級の革命である。
日本映画の原点を訪ねて
映画が日本に伝わった経路とは…
シネマトグラフの発明後、この技術を日本に紹介したのは、稲畑勝太郎という人物だった。稲畑氏はフランス留学時代にリュミエール兄弟と親交あり、
シネマトグラフの可能性に着目した。1896年にフランスでこの新しい映写機と上映技術を購入。この装置を使える人物、映写技師のコンスタン・ジレル氏を伴って日本に帰ったのである。これが日本における映画の第一歩となり、映画産業が京都で芽吹く。〈稲畑氏は映画の父〉といえる存在なのだ。
シネマトグラフをいち早く日本に紹介した、稲畑勝太郎氏
元・京都市立立証小学校ではじめての試写会が大成功し、日本映画原点の地となった。
1897年1月、日本映画史の幕開けを告げる映画の試写会が、京都の元・立誠小学校の敷地内で開催された。これが日本初の映画試写。その成功によって、ここは「日本映画の原点の地」と称されている。現在もこの元・立誠小学校の1階には、京都映画の歴史と伝統を描く展示スペースが設けられており、貴重な写真や資料が訪れる者を静かに迎え入れている。
今も映画の伝統文化を支える、立誠小学校
立誠小学校では、日本映画100周年を記念して2008年に「りっせい・キネマフェスタ’08」が開催。このイベントでは、無声映画の上映や俳優による講演が行われ、この希少なプレミアム的価値の映画は、多くの映画ファンを魅了した。さらに2011年には、京都の映画時代をけん引した映画監督マキノ省三の名作『忠臣蔵』が上映された。このイベントに、マキノ省三の孫で俳優の津川雅彦氏が祖父の思い出を語った。このようなめったにない絶好の機会は、映画ファンには垂涎の機会だった。
さらに、京都の映画文化振興は進化していく。2014年、パラソフィア京都国際現代芸術祭組織委員会が立ち上がる。栄えあるオープニングは、野外上映企画である。元・立誠小学校の校舎前に縦3.6メートル、横5.4メートルの大パネルが設置された。この屋外上映では、映画草創期を象徴するリュミエール兄弟の20作品が映し出され、観る者を映画の原点へと誘う特別な試みが行われた。
〈立教シネマ〉時代を超えた映画ファンを対象に、50席限定の特設シアター
立誠シネマは、京都市立立誠小学校校舎3階の教室を使用したミニシアター風の映画館。35席の1スクリーンの設備でスタートした。さらに京都市とシマフィルム主催〈立誠シネマプロジェクト〉を経て、2013年、立誠小学校南校舎の教室を改装した50席規模の特設シアターが誕生した。開館初日には、映画『時をかける少女』や『乱反射』が上映され、監督・谷口正晃が登壇して華を添えた。この小さな劇場は規模こそ控えめながらも、国内外の多彩な作品を取り上げ、チャールズ・チャップリン特集やトークショーといった特別企画を通じて観客を魅了し続けている。
映画教育の場としての「シネマカレッジ京都」
1993年の立誠小学校閉校以降、ここに映画、演劇、音楽のワークショップが活発に行われる場となり、関西の文化人にとって欠かせない拠点となっている。その集大成として、2013年には関西初の映画塾「シネマカレッジ京都」が誕生。ここでは俳優や脚本家、映画配給の専門家を志す社会人に向けた実践的な講義が展開されている。
この映画塾では受講生が手がけた作品も制作されており、2014年には『父のこころ』という映画が公開された。この映画の撮影は元・立誠小学校や京都市内で行われ、映画文化と地域のつながりを象徴するものとなった。
かつて"日本のハリウッド"と呼ばれた映画の都"太秦" 映画のまち京都のもう一つの顔〈松竹撮影所〉
かつて“日本のハリウッド”と称された映画の都・太秦はマキノ映画の聖地だった。その映画のまち京都におけるもう一つの顔が「松竹撮影所」である。東映京都撮影所と並ぶ重要な拠点として、2009年にリニューアルを果たしたこの撮影所は、松竹・立命館大学・京都府の連携により、人材育成や映画制作の研究拠点として新たな歴史を刻み始めている。
松竹撮影所の歴史は、昭和10年(1935年)に設立された「マキノトーキー製作所」まで遡る。ここでは『必殺シリーズ』や『鬼平犯科帳』といったテレビ時代劇から、『226』(1989年)、『利休』(1989年)、『たそがれ清兵衛』(2002年)といった劇映画まで、日本映画の黄金時代を彩る数々の名作が生み出された。その伝統を受け継ぎつつ、2009年公開の『鴨川ホルモー』や、2010年に立命館大学の学生が制作に参加した『京都太秦物語』など、新たな挑戦も続いている。
松竹撮影所の近くには、芸能の神様を祀る珍しい神社「車折神社」がある。この神社は多くの映画人や俳優が参拝する場所で、境内には名前入りの玉垣が立ち並ぶ光景が見られる。映画文化と伝統が融合する象徴的な場所だ。
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芸能神社—芸能と芸術を見守る祈りの場
「車折神社」にある〈芸能神社〉は、祭神・天宇受売命を祀り、1957年(昭和32年)に創建された。芸能・芸術に携わる人々から厚い崇敬を受け、約4,000枚もの朱塗りの玉垣が、芸能人や関係者によって奉納され社殿を彩っている。車折神社として知られるこの場所は、東映や松竹の撮影所が近接することから、映画やドラマのロケ地としても広く利用されている。『吉宗評判記 暴れん坊将軍』『名奉行 遠山の金さん』『忠臣蔵』など、多くの名作時代劇がここで撮影されてきた。
映画を彩る風景・渡月橋と嵐山
嵐山駅を降りて大堰川(桂川)に架かる「渡月橋」へと向かえば、映画の一場面に迷い込んだかのような美景が広がる。この橋は四季折々の自然と調和し、現代劇から時代劇まで、多くの作品にその姿を映してきた。『悪名』(1961年/大映)、『美しさと哀しみと』(1965年/松竹)、『華の乱』(1988年/東映)など、その歴史に名を連ねる作品は枚挙にいとまがない。
嵐山周辺は、京都を代表する観光地でありながら、多くの映画のロケ地としても愛されている。歴史ある撮影所とともに、この地は映画文化の中で重要な役割を担い続けているのである。
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出典:渡月橋Wikipedia
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