「悲しい」を捉えられるようになったら... エッセイ#31
私は、30代になってやっと、「悲しい」という気持ちを捉えらるようになった。
昔から、「悲しい」気持ちは、私の中にも存在はしていたのだと思う。
けれど、「怒り」とか「無関心」とか、別の感情に瞬時にすり替えてしまって、「悲しい」気持ちを直視せずに蓋をし続けてきた。
それは、小さな頃の私が、自分を守るために手にした術だったのだと思う。当時の環境で、小さな心が「悲しい」を真正面から感じてしまったら、壊れてしまうと思ったんだと思う。
それを大人になっても握りしめていたみたい。
今になって、「私は今悲しいんだ」ってことが、初めてわかるようになった。
「悲しい」気持ちを、そのまま「悲しい」と捉えられること、感じられること、
そして、その気持ちを全身で感じて、涙にして流し出すことが、
こんなにホッとすることだとは、恥ずかしながらこの歳になるまで知らなかった。
「悲しい」気持ちを、別の気持ちにすり替えてしまうと、そのすり替えられた「偽の感情」をもとに生きることになってしまうから、そのひずみが人生のあちらこちらに現れる。
本当の自分として生きていないってことだから。
「偽の感情」を相手にぶつけたら、そのこじれた「偽の感情」に相手が反応してさらにこじれていくし、
本当の感情である「悲しい」は、「どうして無視するの?そうじゃない!」って暴走し始めるし、こじれにこじれてしまう。
「悲しい」に限らず、
自分を守るために、蓋をしてきた感情を、真正面から受け止めるって、はじめは勇気のいることかもしれないけれど、
本当はその方がずっと心が楽で、自分らしくいられて、
物事がシンプルにうまくいくのですね。
大人になった私は、「悲しい」って真正面から感じても、大丈夫だった。
今の私なら壊れてしまわないから、大丈夫。
だから、もう頑張らずに、
「悲しい」は、そのまま、真っすぐ「悲しい」
どんな気持ちも、そのまま、真っすぐに感じたい。
そのままで、素直な私で、素顔の私で、生きていきたいなぁと思う。