インドネシア留学 #3Independence day(インドネシア独立記念日)
今日は、インドネシア独立記念日。
モスクの音楽で目が覚め、朝から活気のある雰囲気を感じる。
私が初めて現地で体験した、インドネシア独立記念日のことを記す。
<歴史>
そもそもインドネシア独立記念日とは、1945年第二次世界大戦後に、オランダから約300年、日本から約3年の植民地支配からの独立を宣言した日である。
この独立を祝って各地で盛大なパーティーが開かれる。
1945年8月17日に独立宣言が発表されるが、その後の歴史の流れとしては、オランダからの再度の植民地支配に対抗して、四年間の独立戦争が勃発する。最終的に、1949年12月に正式に独立国家となる。
上記がインドネシア独立宣言の内容である。
<日本人として>
私は、生まれも育ちも日本で生粋の日本人である。
そのため、上記の歴史的な背景を知り、3年間インドネシアを植民地支配していた日本人としての立場、どのように”インドネシア独立記念日”のパーティーに参加するのかを悩んでいた。
「ごめんなさい」
初めてインドネシアの歴史を調べて、独立記念日というものを知った時にはその気持ちが最も強かった。
しかし、パーティーに参加して、その想いは変わった。
単純に「ごめんなさい」と思うのではなく、インドネシアに滞在する身として独立に対する
「おめでとう」
という気持ちも出てきた。
今まで8月15日の終戦日といえば、敗戦した日本人としての立場のみでしか考えてこなかった。
しかし、インドネシアの人からすると、植民地支配からの独立であり、喜ばしいことであると気づかされた。
国際交流はこのような意味でも、視野を広げてくれるものであると思う。
確かに、今の時代ネットやスマホで何でも情報を手に入れることが出来る。
しかし、実際に現地の祭りやイベントに参加し、自分で調べて情報を手に入れると経験となり、自分の心に強く残る。
だからこそ、これからも色んな経験や勉強をして、自分の目で見て、感じたい。半年間の留学において、1/20は終わってしまったが、更なる発見を19/20で見つけたい。
<パーティー>
独立記念日のパーティーは、私が住んでいるシェアハウスで開催された。
パーティーの始まりを飾るのは、ゲーム。
午前10時から始まる予定だったパーティーは、インドネシアあるあるで30分遅れてスタート。
計3つのゲームを、みんなで楽しんだ。
①ボトルフックゲーム
インドネシアでは水道水が飲めないため、基本的に大きいペットボトル(ガロン容器)を設置して、飲むことが多い。
この写真でいう、下部を半分に切断し、キャップ部分にフック状のものを取り付けて、紐にぶら下がった穴に通すゲームをした。
想像以上に、難易度が高く、自分のフックがどこにあるかが分からないため、スイカ割りをするときのように、みんなからの指示も大切になってくる。
②ロンバ、ムマスカン、ペンシルカン(ペン入れ競争)
次のゲームもこれまた爆笑。
まず、腰に紐で結びつけたペンを巻き付ける。
しっぽとり状態にしたら、瓶を用意して、その瓶の穴にペンが入るようにしゃがむ。
少し恥ずかしい態勢であることはもちろん、想像以上に難しい。
③パン食い競争ならぬ、フライ麵競争?
日本にもあるパン食い競争の、早食いバージョン。
紐に、フライ麵(インドネシアでは、Seblak mawarという。)
をぶら下げてジャンプしながら食べていく。
一番早く食べ終わった人が勝ちだ。
<日本伝統遊び>
その後は、日本の伝統遊びも楽しんだ。特に現地の2歳~5歳くらいの子供たちが興味津々。
子供にとどまらず、各国の人々がやりたい!!とチャレンジしていた。
①コマ
シェアハウスのメンバーが、日本からもってきたもの。
インドネシアの方に見せると、インドネシアにも似たようなものがあると、紹介してくださった。
それがこれ。
②けん玉
「もしかめ」
の歌で、けん玉を久しぶりに遊んだ。
もしかめの歌を説明するために、「うさぎとかめ」の話をした。
しかし、イソップ物語だったためその場にいる世界誰でも分かることに衝撃を覚えた。
<パーティーでのおやつ>
①フルーツ
インドネシアに来て、様々なフルーツを見てきたが、今回は初フルーツを試食。
調べてみると、植物名は”サラク”。
フィリピンの友達は、snake skin fruitと呼んでいた。
まさにその通りで、サラクの皮は蛇のskinのよう。皮もフルーツの果実も固め。
見た目は大きめのライチのようだが、味は水気の少ないリンゴのみたいだった。
詳しくはこちらの記事でどうぞ。
<最後に>
夜は休日で授業などもなく、比較的時間があったため、みんなで買い出しに行きビーフシチューを手作りした。
本当は、親子丼をフィリピンとインドネシアの友達にふるまう予定だったのだが、グロサリーには鶏肉が一切残っていない状況。
それならば!!、と冷凍の牛肉を2パック手に取る。
ルーも、トマト缶もなかったため、小麦粉とバターとミルクでルーを作り、ケチャップをトマト缶の代わりにを使用。
このように、どんなものも代用すれば、食事も生活も出来る事を学んだ。
きっと80年前の戦時中は、日本もインドネシアも、食材や生活用品などは何も存在しなかったのだろう。
今ある全てのものへの感謝の思い、そして、当たり前のことを忘れずに過ごしていきたい。