文学カレー「漱石」と夏目漱石のこと
・牛肉が大好きだった漱石
漱石の発案で「食牛会」が催されたのは、明治38年2月25日夕方のことでした。会に呼ばれたのは、友人正岡子規を兄と慕った高浜虚子、後に弘前高校で太宰治に英語を教えた野間真綱、「天災は忘れたころにやってくる」の言葉を残した物理学者で文筆家の寺田虎彦など、気の置けない人ばかり。「牛のほかに食ふものなし」というように牛鍋をみんなでつつき、談笑が絶えない楽しい会だったようです。この日食べた牛肉は「吾輩は猫である」にも登場する西川牛肉店で買い求めました。漱石の心遣いを感じます。
漱石は作品の中に当時有名だった牛鍋店「いろは」を登場させました。この店は当時日本最大の店舗数を誇る牛鍋店で、経営者の木村荘平は「いろは大王」と呼ばれていました。息子の木村荘十は直木賞作家、荘十二は林芙美子原作「放浪記」などを撮った映画監督、荘八は洋画家として知られています。荘八は挿絵の仕事も多く、永井荷風の「墨東奇譚」のそれは代表作と言われています。洋画「牛肉店帳場」は生家のいろは第八支店(日本橋)を描いたものです。
次男の夏目伸六の著作「父・漱石とその周辺」にこんなエピソードがあります。大学卒業のお祝いに伯母さんから「何が欲しい」と聞かれると「牛肉を腹一杯食べてみたい」と答えた漱石。当時の金額で1円分の牛肉を買ってもらったのは好いのですが、量が多すぎて半分も食べることが出来なかったそうです。明治時代の1円は今のお金に換算するとおよそ2万円になります。牛肉好きの漱石はさぞ悔しかったことでしょう。
・牛と漱石
漱石の生れた「牛込」は701年に大宝律令により「神崎牛牧(かんざきぎゅうまき)」という国営の牧場、官牧が設けられました。牛込とは「牛が込む」牛が多く集まっている様を言い表したものです。
門下である若き芥川龍之介と久米正雄に送った手紙にこのようなことが記されています。「勉強をしますか。何を書きますか。君方は新時代の作家になるつもりでしょう。僕もそのつもりであなた方の将来を見ています。どうぞ偉くなってください。ただし無暗にあせってはいけません。ただ牛のように図々しく進んでいくのが大事です。」別の日付の手紙にも「牛になる事はどうしても必要です。われわれはとかく馬になりたがるが、牛には中々なりきれないのです。」とあります。馬のように早く走り、目的の場所へ向かうのではなく、焦らずにゆっくりと丁寧に道を行くことでこそ、見えてくるもの分かることがあるのだ、という漱石の教えのように思います。
・漱石とカレー
日本にカレーが伝わったのは明治3年ごろ、カレー発祥の地インドではなく、イギリスからカレー粉とともにやってきた、と言われています。明治9年には、「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士が、学長として札幌農学校(北海道大学の前進)を開校、その食事にご飯とカレーがいっしょになった「ライスカレー」を登場させました。普段は米食ではなく、パンを食べることを勧めていましたが、ライスカレーだけは認めていたそうです。そして明治も末になると洋食屋のメニューにも載るようになりました。
明治41年に書かれた「三四郎」の中に「僕はいつかの人に淀見亭でカレーライスをごちそうになった」という一節があります。淀見軒は実際に本郷四丁目にあった洋食屋です。銭形平次の作者野村胡堂は、随筆「胡堂百話」のなかで「大正の末まで残っていた本郷の淀見軒は、内容豊富が一高生の人気の的だった」と書いています。また同書のなかに「明治の末に抱琴が、よく行ったといえば、青木堂か、淀見軒か、あるいはパラダイスか本郷カフェーか」とあります。抱琴(ほうきん)とは、俳人の原抱琴のことで、平民宰相原敬の甥にあたります。彼は俳句を正岡子規に学びました。こんのような記述からも淀見軒に漱石の影が浮かびます。
徳田秋声の「大東京繁盛記」にこんな記述を見つけました。「小石川へ移ってから本郷通りの淀見軒という家があることを知ったが、神田の泉屋に比べると非文化的で、食べ物も進歩していないし、気分も粗野であるのが飽き足りなくて余り足が向かなかった。それは後に牛肉やになったが、直にやめた」明治、大正、昭和と時が移るにつれ、店が寂れていったのでしょうか。
明治33年漱石はイギリス留学へと旅立ちました。その途中にイギリス領セイロンのコロンボに寄港しました。現在のスリランカです。そこでの日記に「六時半旅館に帰りて晩餐に名物のライスカレを喫して帰船す」とあります。
漱石が口にした「ライスカレ」はどんなものだったのでしょうか。それはマリガトニーと呼ばれる、胡椒を煮て作る魚介の入ったさらさらのスープカレーと推測されています。このマリガトニーはイギリスにも伝わり人気を博し、さらにこれが形を変えながら、明治3年頃に我が国に伝わったと言われています。明治5年に書かれた「西洋料理通」にあるカレーは、限りなくマリガトニーに近いものです。時と場を繋ぐ大きな輪を回るように、日本カレーの原点に、漱石はこの地で出会ったのかもしれません。
・近代文学とカレー
日本近代文学とカレー、関係のない二つの事柄。しかし、日本への入り方と発展の仕方は、とても似ているのではないか、と思ったのが文学カレーをつくろうとした切っ掛けでした。この私の思い付きをひも解いていきたいと思います。
日本の近代小説とは何か、ということですが「小説神髄」を書いた坪内逍遥によれば小説の「主眼」とは「人情」「風俗」「世態」を題材にして、「模倣」「写実」「模写」したものとあります。分かるようでよく分かりません。平田オリザさんの言葉を借りると「これから書かれる小説は、勧善懲悪ではなく、人間の心理(これを逍遥は人情と呼ぶ)を直接描写しなくてはならない」少しは理解できるような気がします。
逍遥のこの考えに示唆されて書かれたのが二葉亭四迷の「浮雲」です。明治17年(1887年)に書かれ日本最初の近代小説と言われています。このような書き出しで幕が開きます。「千早振る神流月ももはや跡二日の余波となった二十八日の午後三時頃に、神田見附の内より、塗渡る蟻、散る蜘蛛の子とうようよぞよぞよ湧出でて来るのは・・」
今の小説とは大分おもむきが違います。浮雲が書かれてから100年以上、多くの文学者の努力によって、小説は今のような形になり、われわれを楽しませてくれています。
ではカレーはどうでしょうか。明治の初めにイギリス経由で輸入されたことは前に書きました。その頃のレシピを見ると、材料には「ネギ、ニンニク、生姜、バター、」などとともに「カエル」の肉も載せられており、我々が口にしているカレーとは、だいぶ違ったものだったようです。
カレーライスが一般の家庭にまで広まったのは、大正時代になってからだと言われています。陸軍や海軍でカレーが出され、軍隊生活で口にした人が多くなったこと。大正15年にS&B食品が国産のカレー粉を発売し、それまでの輸入品よりも安価で、普通の商店でも手に入れることが出来るようになったこと。この二つの要素が、カレーが広まった大きな理由だと言われています。
「日本のカレー」の定番といえば、具材は豚肉、じゃがいも、人参、玉ねぎではないでしょうか。しかし、これらの野菜は全て外国から入ってきたもので、大正時代になるまで庶民が口にすることはありませんでした。
豚肉も明治維新以降に全国で食べるようになりましたが、一般に普及したのは、関東大震災以降に到来した養豚ブームの影響で、大正時代の半ば過ぎと言われています。
昭和20年には炒めた小麦粉とカレー粉を一緒にした「オリエンタル即席カレー」を、昭和29年にエスビー食品が固形のカレールーをそれぞれ発売し、今に至る家庭で味わえるカレーの素地が整いました。カエルの肉が入っていたカレーからおよそ150年かけて変化を重ね、いまや国民食とまで呼ばれるようになりました。
日本近代文学もカレーも、今もこれからも形を変え、工夫を凝らし、さらに深化し続け、私達に楽しみを与えてくれるはずです。何気なく開くページの裏には、スプーンで口に運ぶカレーの奥には、こんなにも多様な物語が広がっていました。
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・文学カレー「漱石」とは。
夏目漱石に喜んでもらえるカレーをつくろう、と思い立ちました。明治後期のカレーのレシピを基に、現代でも通じるものに変え、メインの具材は、彼が大好物だった牛肉にしました。牛肉にもこだわり「坊ちゃん」の舞台となった地で育てられた、愛媛あかね和牛を使うことに。
生涯の悩みだったのが胃痛と神経衰弱。そんな漱石の心と身体に寄り添うにスパイスを配合し、野菜は細かく刻みルーに溶け込ませ、胃への負担を軽くしました。
これも好きだったイチゴジャムと、イギリス留学時代の恩師クレイグ先生の出身地アイルランド産のギネスビールを隠し味にいれ、また留学時の心の痛みをほのかな苦みで再現しました。辛みを黒コショウだけでつけ、全体をやわらかい味わいにしました。
やわらかい味。これは林原耕三「漱石山房の人々」で書いていた「こんなに優しい人が世にあろうかと先生の在世中も思ひ続けていたし、死後の現在でもあんなに優しい人には二度と遭えないと信じている」という漱石の優しさをカレーで再現したものです。
小説を読むように食べていただけたら幸いです。スプーンを置いた後に、漱石の作品を開いてみてください。やさしい味わいと、漱石の優しさ。舌と目から入ってくる二つの余韻を、心で感じてください。
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