KingGnuとわたしを繋いだ「エモ」の架け橋
はじめに
「エモい」という言葉はなんだろう。
流行り出したのはいつからだろう。
ちょこっとスマホをいじれば答えらしきものが出てくる便利な時代。
5分でインスタントな知識を仕入れてくる。
出典がWikipediaっていうレベルではあるけれど、だいたいの意味合い、ニュアンスはこれで間違いなさそうだ。
これは初耳。音楽ジャンルとしての意味合いだと、1980年代から使われていたそう。なんてことだ。全然新語じゃない。
なるほど「エモい」は「いとをかし」。これはイメージしやすい。
このnoteでは、ロックバンドKingGnuの人気の理由を、私自身がどのように彼らに夢中になっていったかの過程を通して考察してみたいと思う。今回重要なキーワードとなる「エモい」について軽く紐解いたところで本題へ。
KingGnuとの出会い
2019年に大躍進を遂げたロックバンド、KingGnu。
先日もSPACE SHOWER MUSIC AWARDS 2020で「BEST ROCK ARTIST」を受賞し話題になった。
私は完全に新参ファンで、ガチハマりしたのはこの一ヶ月ほど。情熱大陸のあたりからだ。にわか甚だしい。
去年の夏だか秋だったか、ヒット曲『白日』だけはなんとなく知っていて、紅白の頃も「ああ、はいはい、あれでしょ、なんかセンスいい感じの、あれね、わかるやつだけわかればいい、的な、おしゃれな?音楽わかるやつしか聴いちゃいけない系の?あれでしょ?だからなんかセンスの塊の!あれなんでしょ!」と、もはや何にキレてるのかわからない謎のテンションだったと記憶している。そう、私はKingGnuを敬遠していた。
紅白後に「KingGnuにとんでもないイケメンがいる」という情報を確かな筋(推し活仲間)からもらい、またしてもインスタントに手元のスマホで5秒で検索したものの、そのとき私は1歩どころか30歩くらい引いた場所から画面を見下ろしていた。「ああ、はいはい、だからぁ、あれでしょうよ、こういうイケメンはさ、いいの、大丈夫、間に合ってるから。私イケてないし。音楽わっかんねぇし(鼻ホジホジ)」みたいな具合で。
公式サイトをググってみれば、ひとこと目に「音・ビジュアル共に圧倒的オリジナルセンスと完成度を誇るトーキョー・ニュー・ミクスチャー・スタイルバンド」とある。音楽素人にとってはまずもうここが、なんだかよくわからない。すごそうすぎて見ていられない。
音楽こじらせの民
皆さん。良い子の皆さんはお気づきだろうか。世の中には素直に音楽を楽しめない、「音楽こじらせ」という人種がいることに。
私は紛れもなく、その「音楽こじらせ」である。
いたって普通に育ってきた。幼少の頃は教育テレビや国民的アニメを見て、母親が口ずさむ歌謡曲や、たまに父親が車で流すよくわからないピアノ曲(あとからわかることだけどどうやらジャズだった)を聴いて、小学生になればJ-POPに夢中になり、中学生のときはそれらの曲をカラオケで気持ちよく歌ってきた。
学校生活には避けようのない「スクールカースト」が存在する。それはわかりやすく「明るい」とか「リーダー格」とか「ビジュアル」なんかも大いにあるのだけど、学年が上がるほどに見えてくるのは「カルチャーにおけるカースト」である。
これは性格とか外見のような単純なものではない。そしてだからこそ大変に根深く、成人後もかなり尾を引くものだと個人的には思っている。
カルチャーといっても、マンガや小説、映画、ファッションやアートなど色々あるけれど、ここではひとまず音楽を指して。
例えばジャニーズとか、あゆとか、アムロちゃんとかじゃなくてさ。ミスチルとか、スピッツとか、ジュディマリでもなくてさ。もちろん私はそういうのが好きなんだよ。でも思春期のあの頃、特別に思っていたのは、もっともっと、尖ったやつ。高校時代、クラスで周りより大人びてるなぁと思った男子が好きなバンドはBLANKEY JET CITYとTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTだった。それ。そういうやつ。
ロックが好きな人はバンド活動をして、ダンスが好きな子は洋楽で踊って。私は中学の頃ゆずが好きだったから、アコギを弾くっていう友達とは少し仲良くなれたけれど、でも少しずつ、これは様子がおかしいぞ、と思い始めた。
そこにあるのは漠然とした「イケてるかイケてないか」だった。
大学に入り、私のこじらせはさらに飛躍を遂げる。
ロック、パンク、HIPHOP、ジャズ…知らない音楽ばかりが耳に入ってくる。同じものが好きな人同士の意気投合の速さ。置いていかれる感じ。知ってるやつと知らないやつ。あっち側とこっち側。その頃にはそれなりに、私も努力をした。かっこいいと言われるものを聴いてみたりもした。それで好きだと思えたものもあるし、やっぱりわからん、と匙を投げたものもある。
「音楽がわかるやつは上、わからないやつは下」
だんだんと、自分で勝手に、そんなカーストでガチガチに縛るようになっていった。
大学時代の後半以降は、もう別の好きなカルチャーに出会えてもいたので(小説やドラマ、映画、演劇)、少しずつ、あからさまなアレルギー反応は減っていったように思う(ちなみに大学時代はBUMP OF CHIKENに心酔していた)。でも依然として、「音楽に詳しい人への憧れ」と「良いと言われるものの良さを感じ取れないことへの劣等感」は心に深く根を下ろしていた。
ようこそ底なし沼へ
話を戻そう。
そんな、音楽をこじらせている私がKingGnuに出会ったときに、「はい一旦待とうか」とストップをかけたのは、極めて自然なことじゃないだろうか。だって、あなたたち「あっち側」でしょう?と。無理無理、私にはわからないやつでしょう?いいの、大丈夫、私「こっち側」だから。大丈夫、間に合ってます、と。
けれど「気にしないようにしている」という状態は、それはもうすでにその時点で「気になっている」のであって、恋愛で言えば「落ちている」のである。
私は頭のどこか見えないところ、脳のなかの引き出しの奥かなんかに、小さい小屋を建てて、そこでしばらく「KingGnu」を飼っていたのだ(!?)。私自身にすら気づかれないように。
それがある日突然、「しゃらくせえぇぇぇぇぇぇぇ!!!」って言って(ヌーが?)、小屋とか蹴散らして(ヌーが?)、脳内から飛び出してきたんだよ(ヌーが!)。荒ぶる魂(私の)。
きっかけは、KingGnu井口理のオールナイトニッポン0、aikoゲスト回。
TwitterのTLに流れて来たとき、「え?KingGnuってあの?クソおしゃバンド?ボーカルの人がオールナイトニッポンやってるのは知ってたけど、え?aiko?私の中学の頃からの恋愛と失恋を見守ってきてくれたaiko先生と?は?カブトムシを?」と、なんだかちぐはぐな気持ちになった。言うなれば「あっち側」でイケてるKingGnuと、「こっち側」の私に寄り添ってくれるaiko、だ。えーと、共演?してるの…?
モヤモヤが残るままradikoを開く。
膝から崩れ落ちた。
「エモが過ぎる」
東京藝術大学声楽科卒業のKingGnuボーカル井口さんによる『カブトムシ』、ハモリが気持ちよすぎた件。なんだあれは。はい、ハモリ練習した人?素直に手を上げて。(私)
ちなみに私は小学校のとき合唱部だったので、ちょっとハモリが性癖(なんだそれは)のきらいがあるから余計ですね。
aikoを尊重しながらうつくしくハモる井口さんのスマートさに、一気に沼に引きずり込まれた。
何かチャレンジしたいことがあるのに実際やってみるよりやらない理由を探す方が簡単なように、内心好きだとわかってるけどそれに気づかない、好きじゃない方の自分でいる、というのは簡単だ。見ないようにすればいい。言葉にしなければいい。生活に追われてそのうち忘れてしまうまで。
でも一度でも直視してしまったら。気づかないふりをしていたところに目を向けてしまったら。120%、戻れない。これまで抑えていた分、チョロQ理論で加速度がつく。(チョロQ理論というのは、バナナマン設楽さんが提唱している理論で、何かを抑え込んでいると、その分解放したときの爆発力がすごい、的なこと)
始まってしまった。ズブズブの沼が。
驚異的な速さと深さで私はKingGnuの底なし沼に首まで浸かった。
もともと、推しへの愛が重くなりがち、心酔しがち、オタク気質な私である。曲を繰り返し聴き、歌詞を読み、MVはもちろんその他の動画も夜な夜な視聴、ラジオ音源を遡って聴き、WEBのインタビュー記事を読み漁った。(私の可処分時間全部持って行くKingGnuほんとなんなの責任取ってほしい。)
驚いた。
これはどういうことだ。
私にもわかるじゃないか。
いや、正確には、音楽性のことはもちろんわからない。楽曲を手掛けるあの、ヒゲのイケメン、リーダー常田さんの音楽的な素養、バックボーンであるとか、ベースの新井さんとドラムの勢喜さんがめちゃめちゃテクニックのあるリズム隊であるとか、メンバーそれぞれの音楽的ルーツであるとか。そりゃあ、記事を読めば知識としてはわかる。でも、私自身にそれを取り込む土壌がなければ、染み込んでいくはずもない。
しかしながらこのハマりようはどうしたことだろう。
知れば知るほどKingGnuは「あっち側」の人たちだ。なのに、私はこれまでと一歩もスタンスを変えることなく、「こっち側」の人間のまま、この底なし沼にハマりこんでいる。「あ、だいじょうぶだいじょうぶ、ちょっとあの、たまにくるしいけどね、へへ、たのしいからへいき、ふふ、へいきへいき」って、あっぷあっぷ泥水飲みながらヘラヘラ笑って立ち泳ぎしてるわけ。正真正銘、盲目な沼の民だ。
何故か。
簡単だ。もう答えは出ている。
KingGnuは超ド級に「エモい」から。
アンダースタン?
オーケー、説明していこう。
わたし的KingGnuのエモ解説
①高音と低音のツインボーカル
東京藝術大学チェロ専攻出身のリーダー常田さん(Gt.&Vo.)が渋い低音ボイスで、しばしば拡声器を通して歌い、声を加工。
対して、同じく東京藝術大学声楽科出身の井口さん(Vo.&Key.)が、澄んだうつくしい高音、のびやかなハイトーンボイス。
KingGnuの曲は基本的にツインボーカルで、曲によってメインがどちらかも変わる。レコーディングではかなりコーラスを重ねるらしいのでいろんな声が聴こえるけれど、ライブ音源だとわかりやすい。
二人のハモリはもちろん気持ちいいのだけど、オクターブ違うユニゾンで主旋律を歌うのも同じくらい気持ちいい。それぞれ単体の声よりも、間違いなく気持ちいい。二人でひとつの声になってる感じが、もう、もう、いいのである。
常田さんの低音に乗っかる井口さんの高音。それから掛け合い。デュエットの感じ。井口さんの澄んだ声に対して、時に拡声器で歪ませたような常田さんの声。このギャップ。高い、低い、高い、低い。どんだけ揺さぶるんだ。高低差で頭キーンなるわ。
ここで冒頭「はじめに」で書いた「エモい」の解釈の一部を振り返ってみる。
この揺さぶり、つまり「揺らぎ」というのは、ロジカルの対極にある、一見ムダなものと言っていい。メロディーを伝えることだけ考えれば主旋律のみでいい。軸を揺らがせ、聴き手を惑わせるハモリなどはいらない。
でもKingGnuのボーカルはほとんどいつも二人の声が重なり合って、私たちを酔わせるのだ。はい、『いとをかし』。たいへんにエモい。
②常田さんの楽曲を井口さんが歌うことの意味
井口さんの声は、単体で聴くととても素直で繊細な声だ。だから普通のJPOPの曲を歌うと、もちろん何を歌っても上手だしきれいなんだけど、誤解を恐れず言えば「ただのうまい人」になる。
例えば先日、井口さんのオールナイトニッポンに、井口さんが青春時代より大ファンのポルノグラフィティ岡野さんがゲスト出演し、二人でポルノの曲をいくつか歌った。もちろんうまい。ハモリも最高。でも聴いていて、やっぱりちょっと物足りなかった。これは井口さんの真骨頂ではない、と思った。
その声が常田楽曲に乗っかると、途端に別物になるのである。
素直な曲で聴く井口理より、クセの強い常田楽曲で聴く井口理の方が、数百倍かっこよく、数百倍エモい。
KingGnuの曲に乗ってその上を縦横無尽に駆け回るからこそ、井口さんの良さが最大限引き出されるのだ。
でも実はこれって逆も然りで、常田楽曲を常田さん自身が歌うのはもちろんすごくかっこいいのだけど、それもまた「ただのかっこいい尖ったイケてる人」になってしまう。更に言えばなんだか高尚な、コアな人だけわかるみたいな、そういう歌になりがちだ。「こっち側」の人間が近寄りがたくなる。
それが、二人のボーカルが合わさることによって、相乗効果で魅力が倍増する。井口さんの素直な声が、我々「こっち側」の人間も誘ってくれる。つまり、常田さんの創った世界で自由に暴れる井口さんが最強、ということなんだ。
はい、ここでまた冒頭「エモい」の解釈に戻ります。
常田楽曲はまさに「メロディアスで哀愁的」じゃないか。どうでしょう。教えて音楽に詳しい人。まあいいや、私にとっては、そう捉えられる。そういう曲を、全くタイプの違う二人の声を重ねて歌うことの意味。はい、たいへんにエモいですね。
③見た目とのギャップにまんまとやられる等身大な歌詞
常田さんの書く歌詞は、曲もそうだけどいろいろなタイプがある。
男くさい歌詞、ロマンチックな歌詞、人間味のある繊細な歌詞。
このあたりは男くさくて、常田さんのパブリックイメージに近い感じ。
ねえ。やばくないですか?なにこれ。あのビジュアルの常田さんがこんな歌詞書くとか。歌うとか。意外過ぎる。
「いっそ君だけでいい」?エモい。エモすぎて白目なる。
才能溢れ出ること洪水のごとし、人生何回目?でお馴染みの常田さんが(お馴染みではない)、こんなこと思ってるって、面食らう。きっとすごく繊細な感性の持ち主なんだろう。
私たちからすると完璧人間に見える常田さんでも、どうしようもなく満たされないと感じてる、その気持ちを思うと、ああ…(エモい)。
はい、「エモい」の解釈振り返り、ラスト。
これもガチっと、ぴたっと、その通り当てはまる。「心情を吐露」で言ったらもう、『壇上』あたりはエモがすごいことになってる。KingGnu解散を想定して書いたという曲。ここには載せないけど気になる人は聴いてほしい。
おわりに
他にもKingGnuの魅力はたくさんあって、知れば知るほど、掘れば掘るほど、「井戸なの?」っつうくらいどんどん魅力が湧き出てきてたいへんなことになってるんだけど、ここはもうすでに文字数がたいへんなことになってきてるので、このへんでまとめる。
つまり言いたいことは、KingGnuの持つ溢れんばかりの「エモ」が、「あっち側」と「こっち側」を繋いだのだということ。
もともと歌謡曲、ポップスというのは、メロディ含めサウンド的にも歌詞の内容を見ても、「エモ」を重視しているだろうと思う。「クール」「カッコよさ」重視であろう「あっち側」の人たちが、「エモ」の架け橋を「こっち側」に繋いだのだ。
それがKingGnuをJPOPたらしめていると思う。だからこそ私のような「こっち側」の人間にも響き、だからこそJPOPとしてここまで売れた。
守備範囲外なのであまり触れなかったけれど、サウンド面でももちろん常田さんの戦略はあるだろう。
例えば有名な、「JPOPでやるならサビがないと売れない」と米津玄師に言われた、というエピソード。(後日知ったのだがこれは誤情報だったらしい。米津さんご本人から「あれ言ったの俺じゃないよ」と申告があったそう)
そこから邦楽を聴くようになり、サビを意識して作曲するようになったということ。
洋楽ばかりを聴いてきたという他のメンバー3人と違い、ボーカルの井口さんは邦楽を聴いて育ってきた、ということも併せて、この4人それぞれが持ち寄ったものがあったからこそKingGnuはKingGnuたりえたのだろうし、それこそがKingGnuがJPOPでここまで売れた理由なんだろうと思った。
ああ、ありがとう「エモ」の架け橋。
音楽をこじらせ続けたわたしとKingGnuを出会わせてくれてありがとう。
これからもたくさん聴きます。
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