音楽と映像の総合芸術決定版を見た【KingGnu『三文小説』】
KingGnuの新曲『三文小説』、先行配信後にMVが公開された。
とんでもない愛の物語だった。
映像と歌詞を突き合わせて思うままに書き綴っていくので、もし可能なら別ウィンドウで映像を再生しながら読んでいってもらいたい。
まずこの物語の登場人物は男女2人。
「三文小説」というタイトルからしても歌詞の内容からしても、男は恐らく小説家(何かしらの物書き)であろうことがわかる。
タイトルの字体、セピアがかった映像、2人の衣装などから、明治~昭和頃の日本が舞台だと推測できる。
僕らの人生が 三文小説だとしても
投げ売る気はないね 何度でも書き直すよ
誰もが愛任せ いつまでも彷徨う定め
この小説(はなし)の果ての その先を書き足すよ
躊躇いながらも心を通わせ始め、手と手を取る2人。
夢を語り合っているのかもしれない。
真実と向き合うためには 一人にならなきゃいけないときがある
過ちだとわかっていても尚 描き続けたい物語があるよ
けれど幸せな時間は束の間だ。
忍び寄る試練。男の苦しみ、女の哀しみ。
あゝ 駄文ばかりの脚本と三文芝居にいつ迄も
付き合っていたいのさ
あゝ 君の不器用な表情や言葉一つで
救われる僕がいるから
それでも求め合い、救いたい、救われたい。
祈るような気持ちで再び手を取り合う。
あの頃の輝きが 息を潜めたとしても
随分老けたねって 明日も隣で笑うから
悲しまないで良いんだよ
そのままの君が良いんだよ
過ぎゆく秒針を隣で数えながら
理想を追い求めれば追い求めるほど
深くなってゆく二人の間の溝。
すれ違い。それぞれの闘い。
止めどなく流るる泪雨が 小説のように人生を 何章にも区切ってくれるかな
愚かだとわかっていても尚 足掻き続けなきゃいけない物語があるよ
ようやく手にしたものですら
容易く指の隙間から零れ落ちてゆく現実。
あゝ 立ち尽くした あの日の頼りない背中を
今なら強く押してみせるから
あゝ 僕のくだらない表情や言葉一つで
微笑んだ君がいるから
男の苦悩、焦燥、暴走。
女の無力感、迷い、葛藤。
そしてそれぞれの、孤独。
と、ここで、まるで迸る血潮が心臓から全身へ一気に駆け巡るようなピアノとドラムの間奏が来る。
自分を司るもう一人の自分を閉じ込めた胸の裏側の扉を、ドンドンドン!と叩かれているようだ。体じゅうがザワザワと脈打ち出す。
そして次のサビが来たところで、ふとタイピングの手が止まってしまった。
言葉なんて何になる。野暮なことしてんじゃねぇ。
伝えきれなくてもどかしくて頭のなかで自分自身が吐き捨てた。
でも、書く。私は音楽を作ることなんてできない。演奏もできない。踊りも踊れないし、お芝居だってできない。歌も歌えないし、映像を撮ることもできない。伝えたかったら、書くしかない。
あゝ 駄文ばかりの脚本と三文芝居にいつ迄も
付き合っていたいのさ
あゝ 君の不器用な表情や言葉一つで
救われる僕がいるから
あゝ 立ち尽くした あの日の頼りない背中を
今なら強く押してみせるから
あゝ 僕のくだらない表情や言葉一つで
微笑んだ君がいるから
このサビ前の間奏からサビの入り、バタンバタンと板に体を打ち付ける2人が痛ましく、苦悩や葛藤がとてもエモーショナルに表現されていた。
2人のダンスは人生そのものだった。
『三文小説』で描かれる男女の人生のひとつの結末がそこにはあった。
ここで曲は転調に次ぐ転調、盛り上がりは最高潮に。
何かを急き立てるようでもあり力を与え続けるようでもある魂の演奏。
天啓を得たかのように光り輝く2人。
愛して、すれ違って、傷つけあって、それでも愛した。
溢れてとめどない感情。
扱いきれない暴れ馬を宥めるように、荒れ狂う魂を鎮めるように。
激情。そして訪れる静謐。
音楽って人生を奏でることができるし、人生って踊ることができるのか。
素直な感嘆で胸がいっぱいだった。
ラストは、曲のあたまと同じAメロで幕を下ろす。
この世界の誰もが 君を忘れ去っても
随分老けたねって 今日も隣で笑うから
怯えなくて良いんだよ
そのままの君で良いんだよ
増えた皺の数を隣で数えながら
曲のあたまでもラストでも、どちらも2人は寄り添い合っているけれど、その意味は全く異なる。
同じAメロで挟まれたその間に存在する物語は、ある男と女、たった2人の物語でありながら、2つのAメロを全くの別物にするには充分すぎるほどの一大叙事詩だった。
これはもちろんKingGnuのミュージックビデオなので演奏する彼らが主役なのだけど、回転台で演じているダンサーの2人を見つめていると彼らこそが紛れもなく主役だと思えてくる。
二人の息遣い、指先の震え、流す涙まで想像できてしまうほどに、彼らに心奪われてしまう。
そしてその感情に寄り添ってくれるのは間違いなく2人の人生のBGMとなっている『三文小説』なのである。
KingGnuの4人とその音楽を見つめていると、曲を盛り上げて作品世界へ引っぱり上げてくれる補佐役は回転台の2人なのに、回転台の2人を見ていると今度は、KingGnuの音楽が2人を励まし鼓舞し包んでサポートしてくれているように感じる。
どちらも、主役も脇もいけるのだ。どちらの味わい方をしても『三文小説』の世界を受け取ることができるし、視点を交互にして繰り返し鑑賞することでこの世界を隅から隅まで堪能し、全身に『三文小説』を浴びることができる。
この相互作用はすごい。2回目より3回目、3回目より4回目。回を重ねるごとに2人の人生が胸に迫ってきて、曲の持つ深遠さが聴いている私のなかに奥の奥まで沁みてくる。
常田大希の極上バラードといえば、これまで『The hole』で全会一致(何の)(ファンの)だったように思うけれど、『三文小説』がそれを更新してきている。更新というか、別の道を作ってしまった感じだ。
生みの苦しみは計り知れない。
常田大希の背負うものの多さ、芸術家としての誇り、ひとりの人間としての孤独に思いを馳せたとき、『三文小説』で苦悩を爆発させていたあの彼と重ねて考えることを、どうしたって止めることはできない。
これからも楽しみにしています。
全身全霊で受け止めます。
ファンにできることはそれしかない。