ないた赤おに、に泣く。
娘の音読する国語の教科書で泣く。
赤鬼が山に住んでいた。彼は「わたしはおにに生まれてきたが、人のためには、よろこんではたらきたいな。できることなら、人間たちの仲間になって、なかよくくらしていきたいな。」と思っている。人間と仲良くなりたいから、お菓子作って、お茶を淹れて人間をもてなそうと思うのに、人間たちは怖がって近寄ってこない。赤鬼は悲しむ。そこに友達の青鬼がやってきて、一肌脱ぐ。青鬼が町で暴れて、それを赤鬼がやっつけるという芝居を打って、赤鬼はいい鬼なんだと人間に見せたのだ。人間たちは安心して赤鬼と仲良くなった。でも、青鬼が姿を見せなくなった。赤鬼が訪ねると青鬼の家はからっぽだ。青鬼は、旅に出たのだった。赤鬼と付き合ったままなら、人間が赤鬼を疑うかもしれないから、もう会えないよと。
悲しすぎないか。小学2年生がこのつらさに耐られるのかと思ってしまうくらい。こんな悲しいことってある?と音読を聞くたびに(毎日だ)、苦しくて泣けてしまう。赤鬼は、たくさんの人間と茶飲み友達になって、生活は賑やかになったけど、そのかわり親友には会えなくなった。青鬼は孤独で孤独を救ったのだ。青鬼は今一人ぼっちなのだろうか?緑鬼とか黄鬼とかはいるのだろうか。赤鬼としばらく会えないってどのくらいの期間だろう。
泣いた赤おにはどうして泣いたんだろう。青鬼の優しさに?後悔?。
自分は繊細な精神の持ち主ではない、と思うのだけど、昔からよく物語の悲しさを引きずる子だった。ごんぎつねだって世界が暗くなるほど落ち込んだ。でも、悲しいだけだったら引きずらない。かわいそう、とは思うけど、自分が一緒になって心が痛くなることはない。私が引きずるのはいつも「取り返しのつかなさ」だった。ちょっと調子に乗って遊んでいたキツネが大事な魚を盗んじゃって、お詫びにいいことしようとしたけど…なんていうごんぎつねは「取り返しのつかなさ」の連鎖で苦しくて、私はあの話を憎んでさえいた。こんな話、知りたくなかったと思った。
「吾輩は猫である」だって嫌いだ。飲んでみたお酒に酔って足滑らせて死んでしまうなんて。
取り返しのつかないことをして、悲しい結果になる、それが私の心をぎりぎりと絞る。
赤鬼は、人間と仲良くなれない寂しさを我慢して、ずっと親友の青鬼と仲良くしていればよかったんじゃないの。青鬼はいなくなっちゃったんだよ。
でも、このお話はまだ取り返しがつく。まだ、間に合う。こんな時、私はお話の続きを作る。そういえば「きつねのおきゃくさま」も続きを作った。「きつねのおきゃくさま」も最後きつねが死んじゃうのだ。私はキツネがムクリと墓から起きて(キョンシーじゃない。息を吹き返したのだ)、ひよこと、うさぎと、あひると幸せに暮らしてもらうことにしたのだった。
赤鬼は、オイオイ泣いて、青鬼に会いたくてたまらなくなりました。自分が大切なものを失くしたことに気付いたのです。
赤鬼は、走りました。たくさんの山を越え、谷を駆け、川を渡りました。いくにちもいくにちも走り続けました。
鬼の足は強くてじょうぶですが、それでもこんなに走った赤鬼の足には、たくさんの傷ができました。それでも赤鬼は走りました。
何日も走った、夜明けのことです。きれいな朝焼けが、山のてっぺんからよく見えました。
「この、おひさまを、青鬼くんとみたいなあ」
赤鬼はそう思いました。赤鬼の赤い肌が、朝の陽の光にてらされて、より赤く、より眩しく、ひかりました。
「やあ、今日のおてんとさまはいやに明るいとおもえば、あかおにくんじゃないか」
そこにいたのは、照れくさそうにたつ、青鬼でした。
この続きは、娘と一緒に作ってみようと思う。