白の真ん中で、待ちぼうけ
表現者にとって、悟りを開くのは、一種の「賭け」なのかもしれない。
そこに、一種の境地があるのか。
あるいは、何もないのか。
もし何もなかったとしたら、絶望するしかない。
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金沢を旅行したときのことだ。
僕は妻と二人で、美術館やら兼六園やら、観光名所を巡っていた。
そのうち、妻が言った。
「あなたの好きそうな場所がある」
「どこ?」
「行けば分かるから」
そうして、僕らはバスに乗った。
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市街地からはあまり遠くないところ。
そこに、不思議な形をした白い建物が建っていた。
それこそが、「鈴木大拙館」だった。
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鈴木大拙は、禅文化を世界中に広めた人間だ。
そして彼の死後、金沢市が、彼の生誕地近くの場所に建てたのが、この「鈴木大拙館」だった。
そこは、「資料館としての役割」と、「思索の場所としての役割」を担っていた。
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白い奇妙な建物は、「思索空間棟」と名付けられていた。
つまり、来館者が思索をするための場所だった。
中に入ると、スペースは小さいが、座る椅子が置いてあった。
そしてひとたび腰を掛けると、悟りを開くための空間が広がった。
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目をつむって、瞑想をした。
一種の境地に到達するために。見たこともない景色を見るために。
僕は、それを待った。それをずっと、待っていた。
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どれくらい時間が経ったのだろうか。
目を開けると、瞑想をする前と変わらない景色が広がっていた。
僕は少し、寂しくなった。
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あの時、僕は、悟りを開けなかったのだと思う。
しかしそれは、僕にとって必要なことだったのではないか、と今になって思う。
悟りを開いてしまったら、僕は表現ができなくなっていたのではないか。詩を書いたり、小説を書いたり、そういう表現活動ができなくなっていたのではないか。
だから、僕は、悟りをあえて開かなかったのではないか。
アーティストは、仮に瞑想したとしても、永遠に「待ちぼうけ」でいいのだ。
そのプロセスこそが、新しい表現を作り出すから。
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