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発泡スチロールとその混雑したハムスターの一角に住まうはずだったのかもしれない翁の手は
歩道橋という実にありきたりな場所で、彼は佇んでいた。
今日はなぜか行き交う人々で橋の上は混雑しており、彼はその中に紛れて、自分の目線からも綺麗さっぱり消えて、それで終わりのはずだった。
はずだった・・
彼は追いかけてきた。ものすごい速さで追いかけてきた。イタチとひょうを掛け合わせたようなぬるぬるしさで追いかけてきた。
僕は降りた。それこそ風のような速さで降りた。階段を十五段くらい踏み外しながら降りた。
そしてついに三十一段踏み外し、地面に激突する瞬間の僕の視界に、真っ白の髭と落ち窪んだ灰色の目がチラリと写り・・
捕まった。
うっすら目を開けて、僕は初めてしっかりと彼の姿を見た。
どうにも、元は白だった子猫が薄汚れて灰色になりつつあると言ったようにしか形容できない。
あとは、もう本当に普通の翁だった。
でも、どうやら悪いやつではないらしい。
彼のおかげで、僕は首の皮と膝の骨がごちゃ混ぜにならずに済んだのだから。
翁からは、なんだか嫌な気配がするのだけれど、翁自身は、何かに怯えたかのようにビクビクと肩を震わせている。
とてもこれが悪い人には思えないのだ。
翁はふいに、わなわなと左手を差し出してきた。
「手が変でしょう。どこ、どこが、どこが変でしょうか、どこが変なのですか」
翁はひたすらそう呟くが、そんなことを言われてもどうしようもない。
第一、手をじっくり見ようにも翁の指先がブレすぎて何が何だかわからないのだ。
一旦落ち着きましょうと肩を叩くと、その叩いたところがすっと溶けて消えた。
ああ、こういう体質なのだなあと思って、もうこれ以上叩くのはやめておいた。
一応それで少しは落ち着いたのか、翁は手のブレをようやく目視できるくらいまでに下げてくれた。
じいっと、目を細めて翁の爪の先から手首の終わりまで全てを見つめる。
そして、即答した。
「何も心配は入りませんよ、普通の手です」
そのまま立ち去ろうとすると、翁が追いかけてきた。
待ってくれと言わんばかりに、肩を掴まれる。
「どうかもう一度」
と、その掴んだ手の指先が、またもや薄く透き通りかけていたので、慌てて引き剥がす。
「だめですよ、あなた、手は大切にって大学で習いませんでしたか?」
「中卒です」
「そうですか」
とにかく翁は離れてくれそうにないので、もう一度、手を調べてみることにした。
だがやはり、いくら手の表面に生えている毛穴の奥の奥の奥に住んでいるクロスケが見えてしまうくらい凝視しても、何も変わりはないのだ。
途方に暮れながら、自分の手を見て、翁の手を見てみる。
首を傾げる。
また、自分の手を見て、翁の手を見る。
首を傾げる。
確かに違うのだ。これは絶対に、決定的に何かが違う。
自分の手がジャマイカの一角だとしたら、翁の手はハムスターであるほどに違うのだ。
でも、もう一度翁の手だけをみると、やっぱりなんら変わりはない普通の手であるのだ。
でも、比べると明らかに違う。何かがおかしい。
なんだか空恐ろしくなって、逃げた。
それから毎日、外を出歩くたびに翁が追いかけてくる。
手がおかしいのだと、縋るように。
それがあまりにも続くので、僕はついに苛立って、翁の手をぐわっと掴んだ。
翁は瞳孔を開いて口を開けたまま固まっている。
翁の体は、自分が掴んだところから透き通って次々と消えていく。
手から二の腕、方から胸、腹、頭・・・
翁の声にならない喘ぎも、その侵食が飲み込んでいく。
これでいい、と僕は思う。
そのおかしいのかおかしくないのかわからない手も、何もかも、消してしまえばいいのだ。
「発泡スチロールって、なんで発泡しているんでしょうね」
なぜか、頭の中に浮かんできたのは発泡スチロールだった。
この答えを見つけた時に、きっと翁も、僕も、救われるのだろうと思った。
でも、その答えを僕は見つけられなかった。
だから、こうして翁は消える。僕は生きる。
でも、それを翁は許さなかった。
翁の頭のてっぺんが消える最後の瞬間、そこに一本だけ生えていた銀色の髪が、僕を巻き取ってから、朽ち果てた。
不条理は、こうして条理になったのだ。
それが世の中の仕組みなのだから。