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「勝浦川」その6.妻の死

喜平が台湾移住を諦めた理由は分からない。

だが、喜平は大正十一年(1922年)二月に妻のタイを病で亡くしていた。享年五十だった。
その前の月に亡くなった大隈重信公の国民葬が執り行われたばかりだったが、喜平にとってはタイの死に勝る悲しみはなかった。

喜平が持ち帰ったアカシアの木を傍らに植えた墓はいまは移されて同じ場所にはないが、アカシアの木を傍らに植えた墓には、跡継ぎが絶えたタイの実家の祖先と亡くした児らとタイが眠っていた。

タイは小柄だったが亡くした二人を含め八人の子を産んだ。
タイが亡くなったとき長女は既に大阪に嫁いでいたが、丈三郎は二十二歳で未婚だったし、末の娘はまだ尋常小学校の五年生だった。

丈三郎が結婚したのは家に女手がなくなったからだ。
嫁のゆきえは丈三郎の従妹だった。ゆきえはタイの妹の娘で姪だったのだ。


喜平は、妻が亡くなったら怖いものがなくなった。
余生を静かに過ごすより、いっそ容易ならぬ冒険をしてみようかと思っていた。

喜平一家は主に炭焼きを生業としていた。畑は自家野菜を採る程度の猫の額しかなかった。だが土工の仕事を請け負うと高収入を得ることが出来た。勝浦川の護岸工事や農道の法面や宅地造成で石垣を積み上げる仕事だったが、喜平は石垣積みを得意とした。

喜平は分家した身だったから広い土地を持っていなかった。だから丈三郎をはじめ子どもたちに何を遺してやれるのか、妻と苦労して蓄えた金を何に使うのか、それが問題だった。

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