「勝浦川」その13.お接待と炭焼き
四国八十八ヶ所巡りの旅に出るからには、お遍路たちは皆それなりの事情を抱えていた。祈願成就のために歩く者もいたが、お遍路することで生きている者もいたし、不治の病を患っている者もいた。お遍路は死出の旅でもあったのだ。
ゆきえは、そんなお遍路たちを家に泊めることもあった。食事を与え夜具を敷いて世話をした。
ゆきえは、お遍路をお接待することが死んだ子の供養にもなると思っていたのだった。だから、喜平も丈三郎もゆきえがお接待をつづけることを何も言わずに容認した。
山の開墾は整地も済んで、みかんの苗木を植え終わっていた。
では、何故みかんだったのか?それは後々解ること。
山の畑へ行く途中に建てた炭焼き小屋では、丈三郎が連日炭焼き作業をしていた。
炭焼きは開墾と並行して始めたのだったが、大量の木材を炭焼きするには手間も時間もかかった。
炭焼きの材料になる木は、本来伐採直後のものが最上なのだが、開墾した山の畑に大量に積まれた木々は、時間が経って乾燥すれば薪として使えるが、木炭の方が高く売れたから、なるべく炭焼きにした。
炭焼きは、はじめに木の長さ太さが均一になるように窯の中に立て込み、窯の口まで満遍なく詰め込んだら練った土で窯の入り口に焚口と通気孔を設け壁を作る。
壁が出来たら、焚口に薪を入れて火を点け焚き火を始める。一度焚き出したら昼夜を問わず三日間は焚き火をつづけなければならないし、木炭が出来上がるまでには七日から十日はかかった。
だから、丈三郎は炭焼きをしている間、家に帰らなかった。ほぼ山の畑と炭焼き小屋で過ごしていた。
そんな丈三郎だったが、昭和4年の節分に男の子が生まれていた。
その昭和4年(1929年)は、アメリカに端を発した世界恐慌が起きた年だ。
その影響からアメリカ向けの輸出は激減し生糸の値が大暴落したが、翌年の米の大凶作と相まって農業恐慌が起こり失業者は増え、飢餓や農家の子女の身売りに象徴されるような経済状況のなか関東軍の謀略による事変が勃発し、事変が戦争へと拡大してゆく暗い時代への入口の年であった。