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「勝浦川」その11.石積み

大正10年(1921年)から病篤き天皇の摂政宮を務めていた親王が、天皇崩御に伴って践祚し即位したのは大正15年という年が押し詰まった12月25日のことだった。その日から、元号が大正から昭和へと変わった。
 
天皇の平癒祈願が全国的に行われ歳末の行事も自粛されていたのだったが、そんな時代の替わり目にゆきえはまた男の子を産んだ。初めて授かった子を亡くしてから一年半ほど経っていた。
 
だが世情を鑑み、表立って子の誕生を祝うことは出来なかった。
 
はじめの子を亡くした経緯から無理のないことだが、ゆきえは他人に赤ん坊を委ねることが出来なかった。片時も赤ん坊から離れられないでいた。
 
 
ゆきえは、毎日赤ん坊を背負って山に行った。
山の開墾は原生林の伐採が既に終わり、急斜面を段々に平地を造成して法面に土留めの石積みをする段階に入っていた。
 
山の岩を割り、立て・横・高さが一尺から一尺三寸ほどの立方体に石の形を整えてから一つずつ運んで積んでゆくのだが、二十貫か四十貫目もあろうかという重い石を切り出して
急な勾配を運び積んでゆくのは、丈三郎にとってもしんどい作業だったが、喜平は黙々と玄翁を打ち下ろして石の形を整えるのだった。
 
農具や山仕事で使う道具を扱う村の野鍛冶に何本もの玄翁などの道具を造らせたが、何日かに一度は刃を調える必要があるほど使いこなした。
 
棚野村は大正15年(1926年)2月に横瀬町と改称されたが、山の標高はその地域では一番高かった。開墾した土地の上からは眼下に横瀬の町が見えていたが、晴れていれば淡路島も望むことが出来た。
 
ゆきえがおぶっている子は英雄と名づけられたが、新たな昭和という時代をこの山で働いて過ごすことになる。

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