気づきの支援日誌7/16
「クライエント」という用語を、あまり使いたがらない自分がいる。
なぜだろう。
近ごろ「サービスをご利用くださる方」というひらたい表現を、内言としても外言としても使う傾向がある。
「クライエント」という言葉を禁句にしているわけではない。
ただ、最初は、禁句にしていたところもあったかもしれない。
どこかの国の障害学の院生が書いた論文だったか、クライエントという用語の使い方には「クライエントにはこういう問題があるから、こういうアプローチが必要」という、まだ関わってもいないクライエントに対する仮説と介入の押しつけが含まれていて、クライエント独自のニーズをないものとしてしまう、というような文脈があった。
これを読んだ時、確かにそうだなと思った。
でも、繰り返しこの文脈を心の内で思い返していたら、「もったいないことになるから、使わない」ということになった。
つまり、最初から類型論とか特性論とかの仮説や理論にもとづいて人を見ると、その二次的・三次的な情報に合うように認識するバイアスがかかって、伝えてくださる生のメッセージとその背景が読み取れなくなってしまう。
そして、自ら気づくことに閉じたまま関わるというのは、相手のパーソナリティを弱体化させたり崩壊を招いたり、さまざまな要素の発見や発達の可能性に閉じてしまうことにもつながる。
特に、発見や可能性に閉じてしまうというのは、「ひととひと」という実際の血の通った交流の営みにいるのに、とてももったいないと思った。
その連想が、「クライエント」という言葉の使用を脇においている理由となっていた。
ただでさえ、目の前の方に対する理解を進める作業のために、自分自身の固定観念を都度分解していく必要があるのに、わざわざ「クライエント」という言葉の使用に馴れることで、作業を難解にする必要もない。
それに、日本語はハイコンテクスト・カルチャーの言語で、話の中に言外の意味を多分に含ませて、聞き手の推論・解釈に委ねる割合が多いのだから、欧米より対人支援における他者理解のハードルは高いように思える。
まぁ、文化が異なる以上、こういう安易な比較はちがうか。
またひとつ、自分の固定観念を発見したな。これだから、日誌をつけるのは面白い。
大切にみつめていこう。