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自分の人生を自分の責任で生きるために、手放していいと思うこと
なにかうまくいかないことがあるときに、
生まれや育ち、親のせいにしたくなるときがあるとして、それを「他責」だと思う人もいるでしょう。
そうかもしれない、
だけど、それでもそう思ってしまうときのモヤモヤした気持ち、行き場のないその気持ちの扱いに悩んだことのある人は、少なくないんじゃないか、と思う。
きのう“親のせいにする=他責“としている発信をたまたま読んで、それだけ切りとって読んだときに久しぶりに苦しくなった。
それはそうだよそうかもしれないよ?
わかってはいてもその気持ちの扱いが難しいときもあるよねーと思ったので、
これまでの人生のうちの長い期間をその状態(=親との関係性にモヤモヤを抱えまくって生きていた)、過去のわたしに向けて、伝えたいことを書こうと思う。
*
まず、親や環境のせいにする=他責っていうけれど
「全面的に親(環境)のせいだ」と思うくらい辛かった人はそう思っていいと思う。
でも、私の場合はそうではなかったね。
うまくいかないことを親のせいだ、と心に浮かぶときの罪悪感
それをことばにしてしまうことの罪悪感
毒親とか、機能不全家族にあてはめようとすることの罪悪感
いやいやそうはいってもそこまでではないでしょう?
わたし別に不幸ではなかったでしょう?
そもそもいつまで親のせいとかいっちゃってるの?もういいでしょう??
という自分の声。
親のせいする=他責にしようとして罪悪感で苦しくなって、他責にしきれず結局は自分を責めてきた。
そうして、
小さかった頃の環境とその影響を(よくも悪くも)受けて“いま在る自分”がいて、その「自分」を肯定できていない。
そのどうしようもない事実を前に、
こうなった理由=犯人捜しを続けてきた気がしている。
そして出口をみつけられずにいたんだよね。
*
そんなあのころのわたしに、
今のわたしが伝えたいことって?と考える。
まずは、悲しかったんだね、って
よしよししたい。
ほしかった愛情を得られなかったことの悲しみを閉じ込めて、自分を守るために鎧や仮面を装備して生きてきた自分に、よくがんばったね、って言おうと思う。
そして、
育ってきた環境・親の影響を受けて今のあなたがある。それは間違いないけれど、
その中には選べなかったものもあって、
それによっての影響が今のあなたに生きづらさを感じさせているのならば、それについては親(環境)のせいにしてもいいんじゃない?って思う。
だって、小さかったあなたにはどうすることもできなかったのだから。
その責任は、親に返していいよ。切り離していいよ。って、言いたいと思う。
親を責めるためじゃなく、そこから自由になるために。
そして、
ただただ、知ろう。今の自分について。
なんのために、どうやって生きてきて今の自分が在るのか、ということを、
ジャッジすることなく、そっか、そうだったんだね、と。
そこから、
抱えてきた荷物、鎧や仮面をどうするかは
自分の責任で決めること。
どう生きていくかは自分次第。
あなたはもう小さかった子どもじゃない。
どう生きるかは、自分の責任。
今の自分に、これからの自分に、必要なものだけもって生きていくために、
自分が負わなくてもいい責任を、切り離していいんだよ。
これからを、
自分の責任で、
自分の人生を生きるために、切り離していいよ。
そういってあげたいと思う。
*
他責にしてはいけない、
なにかうまくいかないことがあるとしたら、
変わるのは自分。
それはそうなんだけど、
自分の責任でないことまでは
負わなくていいし、抱えなくていいんだと思う。
それがややこしくしてしまってきた原因なのかもしれない。
いつまでも親のせいで、みたいに思うことがコンプレックスだった。
わたしは愛されなかったから、みたいに思う自分がいやだった。
それをどうすることもできなくて悩んできたのに、
不思議なことに
親の責任を親にかえそう、そう思ったら軽くなって
親に対する感情も穏やかになった。
ずいぶんシンプルな話だったんだ。
そう思えたあのころから、
自分の人生を、
自分のために、
自分の責任で歩くということを、
本当の意味で、始められた気がしてるんだ。
***
書くことで自分を知って、自分を生きるプロジェクト
◆ライティング・ライフ・プロジェクト
のファシリテーターをしています。
⇒次回募集の際はお知らせします。