見出し画像

noteってデジタル図書館かと思っていたら、SNSだった件(中)

ちょっと雲行きが変わってきたのが、23年8月に企画ものに初めて応募してみたときだ。
「#推したい会社」という募集があり、ちょうどそのころ株式会社エールという「人の話を聴く」ことを仕事にしている会社のサポーターになったところだったので、この会社を強力推薦したい!という衝動が湧き上がり、原稿をまとめてみた。


応募したら、「あなたの記事がピックアップされています」と連絡があったので、エールのサポーター仲間に向けて
「noteにエールのこと書いたらピックアップされました!」
と紹介したら、みるみる「スキ」が増えていった。

エールサポーターばかりじゃなくて、エールの中の人にも読んでもらえたみたいで、間接的に反響が寄せられるという経験をした。
イベントに参加しないかといったお誘いが来るようになったり、インターネットラジオに呼ばれて話をしたりといったことが起きた。

自分の書いたものが、見ず知らずの人たちに読まれ、「スキ」という反応が返ってきたり、実際の活動に影響する、これって図書館みたいな静的なものじゃなくて、もっとダイナミックなメディアだし、ソーシャルネットワーキングサービスじゃん、と認識が改まっていった。


月に1本かそこいらといったのんびりしたペースで、徒然なるままに書いていた私だったが、2023年の11月に重大な決断を下すことになる。


「通訳案内士」の試験を受けると決めたのだ。
通訳案内士とは、日本にやってきた外国人観光客に、外国語で日本を案内し説明できることを証しする超難関国家資格で、試験は年に1回しかなかった。
そのレベル感はと言えば、TOEIC900点以上もしくは英験1級で英語の試験が免除になるという感じだ。自分が持っている資格は、英検4級だった。
試験は2024年8月。残された時間は10ヶ月。1年足らずしかない。
1年弱で英検4級の実力を1級レベルまで上げる。無謀な挑戦であることは承知の上だが、それに挑戦してみると決めたのだった。

英語の長文を読んでいると、めっちゃ眠くなるし、分からない単語が出てくると日本語にできない。それどころか、知ってる単語しか出てこないのに、イディオムが分かってないためにさっぱり意味が通じない、という現象が立て続けに起こったのだ。
しかも、大学受験みたいな問題が出るわけではなくて、外国人観光客に
「日光東照宮は徳川家康を祀った神社なのに、なぜ輪王寺というお寺が一緒にあるのか?」
みたいなことを英語で説明できなくてはならないのだ。
そんなこと、日本語でだって説明できない。


「そんなこと10ヶ月でできるわけがない!」
100人に聞いたら99人がそう答えると思う。
でも、少なくても最後の1人、自分だけは「俺はできる」と信じたい。
いや信じることにしたのだ。

それを実現するために、この困難な挑戦をnoteでマガジンにしようと思い立ったのだ。
そうやって
「通訳案内士に俺はなる! 炎の同時進行ドキュメント」
の連載がスタートした。

これはもう、徒然なるままに書き綴ったエッセイではなく、人生を賭けた戦いを勝ち抜くための方策としてのnoteだった。

実はこの時、密かに英語力を爆上げするための隠し球を用意しておいたのだ。
ふふふ。
それが3週間にわたるオーストラリア旅行である。

オーストラリアに行ったのは3月下旬から4月中旬まで。

ところが、帰国して突きつけられたのは
「たいして英語が上達していない」
という残念すぎる現実だった。

こうして、魂が抜けたようになって、7月の受験申し込み期限を迎え、私は今年の受験を見送るという決断をしたのだった。

マガジンも中途半端なまま、宙ぶらりんで浮いたまま、連載は中断している。

敗北感にまみれたまま、時間だけが過ぎていったが、私はオーストラリアでの出来事を何とか、文字にしなくてはと思っていた。
そうしなくては、ただの挫折体験で終わってしまう。

象徴的な意味で、英語の勉強になればと飛び込んだ映画館での出来事だけは字にすることができた。
それが「オーストラリアで役所広司のPERFECT DAYSを観る」だった。


3週間のオーストラリア語学留学という触れ込みの旅行。
その記録が、これ一本しか書けない。
その事実が、当時の挫折感を象徴していた。

このままでは終われない。
何かを形にして残さなくては。そんな焦りの中、帰国後3ヶ月も経って何とか仕上げることができたのが「シドニーが美しすぎる件」だった。


この投稿が僕に奇跡を起こすとは、この時は予想だにできなかった。(続く)



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?