自分のためのnoteを書くため、敬語を辞めることにした
最近よく私が言っている「将来の自分のためになるnoteを書く」。この考え方を後押ししてくれる文章を見つけた。
僕がいまいちかなと思った文を人が面白いと言ったりする。だから自分では判断しない。ただ、毎日、書いていく上で僕が注意するのは、僕が楽しく書いているか、書きたいことを書いているかってだけだ。それが僕にとっての香りの高い大葉だ。後は虫に食われる。表現が悪いかもしれないが、虫ってのが読者の人だ。読者が好きな文章は読者が好きな文章だ。それが僕の文章だとあんまり勘違いしちゃいけない。そうすると、いつの間にか人のために書くようになってしまうからだ。いつでも自分のために。自分が楽しめるように。それがおいしい大葉を見つけるコツであり、書くときのコツである。
土になる 第2部 (11) 坂口恭平
坂口恭平さんが昨日投稿されたnoteだ。いつも自分のために。自分が楽しめるように。これは、私がnoteを書くときのコンセプトである「将来の自分のためになるnoteを書く」に似ていると思った。それと、「いつの間にか人のために書くようになってしまう」という部分。これも、以前私が感じた、共感されるために文章を書いてしまっているのではないかという危機感と似ていると思った。
このnoteを投稿してから2週間、「見知らぬ誰かの共感を得るよりも、読み返した時に自分のためになる文章を書く」ことを心がけて書いてきたつもりだった。でも、書いている間ずっと、自分のための文章になっていないんじゃないかという違和感があった。「自分のために書こう」と思って書き始めても、書いているうちに、結局読んでくれる人のことを意識した文章になってしまっているような気がした。変に読む人に語りかけるような表現を使ってしまっているし、読み返した時にどうしても自分のために書いた文章には思えなかった。
そこで私は、もしかしたら言葉遣いが原因じゃないかと考えた。私はnoteを書く時、基本的には敬語を使っていた。「素人が常体を使うのは難しいし、第一、読んでくれる人に対する表現として失礼」というようなことが書かれた記事を見たのをきっかけに、自分のnoteにも取り入れてみたのだ。読んでくれる人を意識した言葉遣いをしていたのだから、自分のために書いた文章に思えなかったのは当然のことだ。その記事を読むまでは、常体を使って書いたnoteも多かった。そのときの文章の方が、最近書いたような敬語で書かれたものより、読み返した時に自分の心に沁みやすい気がする。だから、今回から敬語を辞めることにした。
自分と会話する時、当たり前だが敬語で会話をすることはない。普段タメ口で会話をする相手に、noteの時だけ言葉遣いが違うのは変である。それに、今回久しぶりに常体で書いてみたが、敬語で書くときよりどんどん言葉が溢れてくる。使い慣れている言葉のほうが、思考したり文章を書いたりしやすい。ストレスフリーな感覚だ。
今後、また急に敬語に戻そうと思う時がくるかもしれない。その時は敬語を使ってnoteを書けばいいと思う。でも今の私は、自分のために書くなら常体で書くのが一番じゃないかなと思っている。その時そのときの感覚を大切にして、これからも、自分のためのnoteを書こう。
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