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よくわからないねじの正体

深堀りという言葉があまり好きじゃない。言葉の意図とは裏腹に、悪い意味で軽薄な感じがする。何かにハマることを軽やかに沼と表現するのも同じ。好きじゃないけど、コストパフォーマンスを示すタイプの用語を使わないと引きがない現代の都合もわかる。何しろ情報が多い。不可分所得が少ない。税金は安くない。自由な時間が足りない。生きるためのコストが高過ぎる。

コスパなんて略称がまだ存在していなかった頃、下らないものをたくさん観た。そのなかでも最高だったのがシティボーイズのコントで、横殴りに登場する訳の分からないものが大好きだった。コンビーフの缶詰を開けるときに使うあの金属製のぐるぐる巻き上げるやつに急にスポットライトを当てる。劇的な音楽を流す。天狗のコントが続くと思ったら、終盤に天狗の鼻を粉末にしたものが堆く積み上がっている。グランドピアノも粉末になっている。記憶力がそもそもバグっているので、どの公演のどのコントかまで思い出せない。深堀りするつもりもない。クレジットされていた作家は、たしか三木聡さんだった。ネットでやすやすと調べられることで片付けたくない気持ちもある。

インターネット以前、90年代に調べられる限りの情報では、あのシティボーイズのコントの基盤は80年代に宮沢章夫という人が作家として参加した辺りから確立されたものであるらしい。宮沢章夫といえば、僕の本棚の中ではすでにエッセイの人であり、演劇の人であり、文学の人だった。百年目の青空という本で、"引出しの中に転がっている正体不明のねじは、いつか役に立つことがあるのか?"という投げかけが起点となっている文章があり、そのニュアンスがコンビーフを開けるやつのコントと符号していた。下らなさの本流を辿ると必ず名前が出てくるのが宮沢章夫という人だった。

よくわからないことで笑うには、原資が必要になる。子供の頃、クラスで流行させた遊びがある。手の形を、花のつぼみのようにすっぽりと丸める。授業中とか、休み時間とか、唐突にその形の手を同級生の前に差し出す。頭上に疑問符が浮かぶようなわかりやすさで、手のつぼみを示された人は首をかしげる。「(ひっかかったな)」という顔をすると、相手は「(やられた)」という顔になる。小規模だけど、訳のわからないことで笑ったり笑わせたりする原資はこういうところから育まれたりする。

現代には、タイムパフォーマンス略してタイパという言葉もあるらしい。タコパ(たこ焼きパーティー)みたいな浮かれた響きの用語で比べられる可能性がある全てのカルチャーに同情する。同情するが、他人事ではない。現代人の時間感覚を無視して、いま生きている誰かをたのしませることはできない。宮沢章夫さんがある時期から笑いではなく演劇の方向へ主軸を変えたのは、なぜだったのか。いつか直接、話をしてみたかった。

コスパやタイパといった不可解な用語を経済学的、社会学的にパキッと説明するには、カール・マルクスの資本論を軸にするのがてっとり早い。マルクスの資本論に価値魂という概念が出てくるのだが、それに触れるきっかけになったのはやっぱり宮沢章夫さんの本だった。教養とは何か、文化とは何か、笑いとは何か。考えるうちに自ずとスケールしていったのかもしれない。

良きタイミングで続きを書こう。長くなるのでまたにする。


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