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いい作品をいい作品にするもの

今日の私は,おそらく周りから見ても,久々に多分楽しそうに話していたと思う。理由はこれだ。

少し前の飲み書きでもふれたが実は筆者もこの映画を見た口である。

自分の見た映画が作品賞を受賞するという経験が今までなかったのと,純粋に何かしらの賞を取ってほしいなと思っていたので純粋に今回のこのニュースを聞いて久々にテンションが上がってしまった。

さて,今回は「純粋に賞を取ってほしい」と思ってた理由について述べる。後出しじゃんけんなのはお許しを。

実は泣いてない

CODAの感想を検索するとまあわかるのだが
「感動した!」
「泣いた!」
という意見が散見される。

実をいうと筆者,この映画を見て全く泣いてない。人間らしい感情がないのではないかと言われそうだしまあそこは否定しない。ただあの映画,純粋に「どこに泣くシーンがあったんだろう」と思ってしまうのだ。
重要なのは私の涙腺が常人と比べてどうかではない。この作品は「人を泣かせるためのもの」ではないと私が感じていることだ。

映画って何のためのもの?

確かに作品の世界観に引き込まれたのは事実だ。だがこの作品は別に「感動させるためのもの」ではないように感じるのだ。

CODAのあらましはおそらく皆様調べていらっしゃるだろうから,ここでは言及しない。ネタバレにならない範囲で述べるとこの映画は主人公の女子高生ルビーとその家族の日常生活の話と音楽の話が並走している。自分は音楽が絡んだ小説や物語をよく読むし見るのでそれとの比較になるが,音楽を扱った作品にしてはあんまり音楽の練習シーンが多くないように感じた。

その分日常生活の比重が少し多めになっている。この作品は派手なアクションも出てこないし,どろどろした愛憎劇もない。
そこにあるのは難聴ゆえのすこし変わった日常と若者の歩む姿である。一見目を引くところなんてなさそうに見えるのに,目が離せなかった。

それで終わった後に思ったのだった。「また見たいな」と。

静かな余韻

なんてことのない日常をここまで美しく表現できるのは役者さんの演技やカメラマンさんの技術,もちろん監督の采配,いろいろなものがあるだろう。

近頃動画を見ることが増えたが,どうしても見てもらうためにある程度センセーショナルな表現を用いたり,サービスするようなシーンを入れたりとみんなすごく必死である。誤解がないように言うとCODAを作った人たちが必死でないと言っているわけではない,念のため。

必死なのはわかる。私だって動画作るときは必死だ。

ただ,必死に見せようと思って作ったものでも終わってしまった時の余韻というのは残らないものである。でもこれは,余韻が残っていたということになる。

多分作品の良しあしってこの「余韻」もかかわるんだろうな。そう思った。作品を作る側としても勉強になるニュースだったのは間違いない。ほかのノミネート作品を見てないので何とも言えないし賛否両論はあるだろうが,この「余韻」がCODAをいい映画にしたんだろうなと私は勝手に思ってる。

作品の良さの指標

いろいろな作品を見て思い出すのは,いい作品には「余韻」があることだ。

多分その余韻を作り出せたら,誰かの感情の居場所も作れるんだろうなと思ってしまう。

そういう気付きもあったので今回のニュースはとてもうれしかった。
こんな風に思われる曲や動画を作りたいと思ってしまうのだった。


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