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やじろべえ日記 No50 「重石」前編
私はしがないキーボード弾きの大学生だ。名前はそのうち出てくるので省略する。今日は日程変更で講義が昼で終わったので,少し前にスタジオの別室を借りて個人練習している。やっぱり,講義も大事だがこうして自分で手指
を動かす時間も必要だ。
昨日諸事情でキーボード練習を休んだのだが,やはり休む時間というのは必須である。休む時間,インターバルをはさむと自分の得てきたものを整理できる。完全に消化できるのだ。
浅井さんがバイトで遅れるので実質1時間半程度しか時間はない。油断は許されない。
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「やっほー,市村さん。時間通りだね。」
「お疲れ様です戸村さん。よろしくお願いします。」
「よろしく。準備するから待ってて。」
「OKです。向こう行ってますね。」
準備終了後,早速セッションを始めたのだが,やはり自分の癖は治りきらなかったようだ。
「市村さん,また合わせに来てるよ!」
「すみません,もう一回お願いします。」
『無意識に合わせに行ってしまうこと』が原因で起こっていた自分の癖,『日ごとに変わってしまう演奏』。
そして浅井さんと伏見さんが私に合わせにくくなってしまったことを改善するためのこのセッションも気が付けば一週間が経とうとしていた。
結局ここまでしても合わせに行ってしまう負の習慣は全く改善しなかった。
できないことが悔しいのだろうか?周りに合わせられないことが悔しいのだろうか?期待に応えられないことが悔しいのだろうか?これだけやってもできない自分が腹立たしいのだろうか?人につき合わせてるのに全くできなことが恥ずかしいのだろうか?
それはわからない。あるいは全部かもしれない。それでも今はひたすらセッションに没頭するほかなかった。
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数十分後に浅井さんが来たもののそのころには二人とも床にへばっている状況だった。
「おー建成,おつかれー。」
「おつかれー…って二人ともそんなへばってどうしたの?」
「ちょっと本気出しすぎたわ,あっはっは。」
「陸人は大丈夫そうだけど…」
しがないキーボード弾きである私は浅井さんが来てもしばらく声も出せなかった。やっと絞り出すように言えたのが
「あ…浅井さん…お疲れ様です…」
ただの挨拶だった。
「市村さん…なんだがだいぶげっそりしてるんだけど…昨日ちゃんと休めたの?」
「むしろかなり休みましたよ…キーボードは一回も触ってないし…のんきにクリームソーダ食べてたし…これまでいろいろあったなあって思い出に老けてたし…休めたはずなのに…全然抜けないんです。自分の癖が…」
「市村さん…?」
「おいおい建成,市村さんやばいんじゃないのか,市村さんとりあえず落ち着こう?」
そこからなぜか涙は止まらなかった。泣きたくなんてなかった,泣いてる暇はどう考えてもない。泣いてる暇あったら普通に練習するほうがいい,セッションを少しでもやる方がいい,でも指が動かない,涙が止まらない,声も出ない。
「…頭を空っぽにして,自分を持とうとしても自分にあるものは何もないんです。情けないけれど,1日休んだくらいではこれはどうにもならない。でもこのまま休み続けても自分はどこにもたどり着けない。でも合わせたくてもそれができるルートがない。」
「市村さん?」
「市村さん,一回イスに座ろう?」
戸村さんに促されて椅子に座る。
「市村さん,もしかして追い込みすぎたかな?あまり負担になってるのであれば無理はしなくても…」
「…やっとセッション出来たんです。1日限りでなくて。何日か連続で。それも2人と。1人も楽ではありました。でもセッション出来ないってことがいつもいつも,重石のように頭に乗っていました。またあの日々に戻るのはつらいんです。」
そこで私ははっとした。なんでこんなに言葉が出てくる?こんなに流ちょうに。私は,なんでこんなしょうもない話をしているんだろう。
「ごめんなさい,お二人には関係ない話でしたね…」
「関係なくはない。」
めずらしく語気を強めていったのは浅井さんだった。
「市村さん,初対面の日から思ってたんだけど,もしかして君はさみしいとか悲しいをあまり言葉に出してこなかったんじゃない?今の今まで。」
…そうかもしれない。
「そうかもしれないです。言葉にしたところで何も解決しませんから。」
「ちょいちょい市村さん,自分の感情も表に出せない人が演奏で自分を乗せることなんてできないでしょー。…もしかしてそれに気づいてなかった?」
「…え?」
「珍しく陸人がいいこと言ってるな…市村さん,もしかしてだけど,今泣いた時も『泣いてる暇があったら練習しないといけないのに』とか思ってなかった?」
「…図星ですけど。なんでわかったんですか?」
「親のしつけとかで感情を言わないように仕向けられた人がよく陥るパターンなんだよ。言葉で示せないなら行動で!が変な方向に行ったケースだね。」
…そうなんだ。
「さみしいとかつらいとか,感情はちゃんと吐き出せないと認知できなくて苦しむことになるんだよ。…それで大変なことになった実例もあるしね。」
「うん。市村さん,たぶんだけど市村さんの中にも苦しいとか悲しいとかもっと色々感じたことあるでしょ?」
「…それは…わからないですけど…」
「とりあえずその重石?のような日々になるのが嫌だってことをもう少し言葉にしてみない?市村さんの中にあるものをとりあえず出そうよ。」
私は黙ってうなずくほかなかった。
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後半へ続く
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