たとえばフルーツバスケット。
中学生の頃かな、友だちに貸してもらって高屋奈月の『フルーツバスケット』をはじめて読んだ。その頃すでに、最終巻が発刊されてから5年近くが経っていたと思う。
読み始めてすぐ、あぁなんだろうちょっと思ってたより古いな…という感想。時間というより感覚の話であって、でも折角借りたし苦手とは違うしもう少しだけ、と読み進め、私はまんまと十二支の世界から離れられなくなる。
(解説でも考察でもなく思ったことを書くので、フルバをわからない方はわからないまま終わる文です。)
ステイホームの声がより強く届くようになり、1年ぶりくらいに読み返した。この漫画に出てくる台詞や言葉はどこか遠回しで間接的で胡散臭い。わかりやすい言葉を使うのは透くらいで、紫呉においては、あえてはぐらかしの表現を選んでいるのかまともに会話をする気がないのかすらわからない。語順も素直ではないから、脳内で絡まることもよくある。なんでそこに間を生むんだ、誰の台詞なんだ。
しかし「作者の作風なんだろうな」と思っていたら騙される。言葉にはきちんと裏付けの事実が存在し、最後には全ての伏線が回収される。ミステリーではないからトリックや種明かしがあるというのではない。彼らの命の道の距離が長く険しいものであったことの現れとして、目で見たその場で腑に落ちる言葉で伝えるにはどうにも足りないということだろう。
慊人の息巻く依存の悲しみも、十二支であることの痛みも、透の強がりを包んでしまうはるかに大きな優しさも、読んで感じることと想像することはできる。ただし神と十二支の血の絆だけは、私の理解の範疇にない。これだけがただただ遠い。紅葉の呪いが解けた時、彼はすがる慊人を冷静に追い払う。しがらみを既に第三者の視点で見られる自分に彼は気がついている。私は常にこの第三者の立場であり、彼らの絆の輪に入ることは到底許されない「外」の人間だ。血の絆を理解ができないのは、神様との約束が私の命に流れていないからだ。
猫憑きだけが化け物になるのは、神様のかけたまじない由来ではないと思っている。出会いも早く特別愛されていた猫が神様との永遠を望まないことへの、十二支たちの悋気に似た歪んだ想いが生んだ悲劇に感じる。それほどに想いというのは頑丈であり、そしてあっけなく綻びが出るものでもある。
終わりが見え始めた呪い。これが解けた順番は、なんとなくだけれど、守りたいものへの覚悟が固まったタイミングの順だと思っている。紅野の過去はそれほど語られないけれど、酉の血が濃く生きているときに、彼はきっと自立した心で誰かのことを想ったのではないだろうか。他人であれ自分であれ、十二支の自分を受け入れて手放す準備ができたとき、彼らは最後の宴を終えていく。すごく寂しいね、巣立ちはどんな時でもやっぱりすごく寂しいね。
透の中に母を追う、というのはこの漫画における最大のテーマだったと思う。由希の零した想いが、ということではなく、私たちはどこか満たされなかった子ども時代の憧れを永遠に追いながら大人を生きてしまうのだろう。それが今の私たちの首を締めるものであろうがなかろうが、心の穴を埋めるには絶対に代わりがきかないというものがある。少なくとも私にはある。もう穴を穴のまま抱えて生きようか、と思ったところに幻影を纏った透が来る。穴は埋まらないけれど、埋められないことを許してくれる、それが透。求めていたものが母の愛ではなくても、彼女の母性に皆肩の荷が下りてしまう。恋愛対象として彼女を愛した夾だって、それは同じことのように思う。
昨日の夜、23巻読み終えた。何度読んでも最終話を迎えた夜は必ず透の夢を見てしまう。不思議なんだけど、透と夾を見るのだ、必ず。終わりは切なくて、でも消えたりしないよと夢が言う。
悲しみのない人生は、そうでない人生よりも思い返すものが少ないかもしれない。痛みを思い出すこと、何かを愛おしむこと。密度の高い命が見えるもの、たとえばフルーツバスケット。