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#69 「剣道では人間形成できない」は本当か ~剣道活性化のために考える~
「剣道やってる人にはロクな人がいない」
「剣道で人間形成ができるなんてウソだ。思い上がりだ」
このような発言が年々増えているような気がします。
私もそう思います。なぜでしょうか。
正確に言えば、剣道は良いもので、人間形成ができるものだと私は信じて疑っていません。でも、今の剣道の取り組み方ではそれができないのではないかと考えているので「私もそう思う」のです。
■「剣道を正しく真剣に学び」
剣道の理念と剣道修練の心構えを見てみましょう。
<剣道の理念>
剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である
<剣道修練の心構え>
剣道を正しく真剣に学び
心身を錬磨して旺盛なる気力を養い
剣道の特性を通じて礼節をとうとび
信義を重んじ誠を尽して
常に自己の修養に努め
以って国家社会を愛して
広く人類の平和繁栄に
寄与せんとするものである
どうでしょうか。
剣道修練の心構えに「正しく真剣に学び」とあります。
つまり、「正しく真剣に学べば」人間形成ができる―正しく学ばないから人間形成に繋がらないということではないかと考えています。
また「勝負に勝て」「てっぺんを目指せ」というようなことはどこにも書かれておらず、むしろ「平和繁栄に寄与しましょう」という表現があることに気づきます。
■剣道を活性化させたいという思いが向かう先
剣道を始める子どもたちは減少し続けています。
まちの大会では、5人編成のチームが組めず、中高生の大会は連合チームが増える一方です。さらにこの先、公立中学部活動の地域移行によりますます人口減に拍車がかかるかもしれません。
ここで剣道の活性化のために求められることとはなんでしょうか。
まず誰もが考えることは、剣道をポジティブに捉えてもらうことではないでしょうか。
「気軽に取り組めること」
「楽しいこと」
「カッコよさを見せること」
などなど。
礼儀が身に付く、姿勢がよくなるということもそうかもしれません。
強い剣道人ってカッコいいですよね。
剣道をしていれば誰もが「強くなりたい」と思うでしょう。私もそう思います。ただ、強い剣道人の定義とは何なのか?とさまざまな年代の人に問いかけると、返ってくる答えはひとつではなさそうです。
思い浮かぶのは、「試合で勝てる人」「大会で優勝するような力のある人」でしょうか。特に若年層はそうだと思います。
■剣道の目的が試合に勝つことになっていないか
こんなに必要なのかな?と思うほど、試合(大会)が増えている気がします。そして、それが増える程に「一本の取り方」「勝ち方」がネットに増えていきます。
剣道の目的が試合に勝つことになっていないでしょうか。
「剣道をはじめたい」と門を叩く人に、私たちは何を教えているのでしょうか。竹刀の握り方と座礼くらいは教えたうえで、あとはひたすら剣道独特の動きを覚えてもらい、試合にデビューさせる。
慣れてきたら試合に勝つための稽古を増やす。一本取るための技を身に着ける…その繰り返しになっていくのが大半かもしれません。
極端なことを言えば、道着袴と剣道具を身に着け竹刀を持ち、あとは動けるようになっていけば剣道はできてしまうのです。そして案外、そのまま六段、七段(もしかして八段も?)まで取れてしまうのです。
剣道には、運動以外にもたくさんの要素があります。
たとえば、作法一つひとつにも意味があります。
剣道具にも意味があります。材料や構造などを紐解くと、社会科の勉強にもなるようなエピソードがいっぱいです。
剣道の歴史を知ることもまた楽しいです。歴史好きな子どもたちだったら目を輝かせることでしょう。
道場には神棚がまつられ、稽古のはじめと終わりに神前に拝礼することにも、意味があります。
どうしてガッツポーズが認められないのかという説明を「相手にとって失礼だからだ」ということで終わらせていないでしょうか。実際にはもっと深い意味があります。
でも、これらのことに関わらなくても試合には出られます。全国に名を轟かせることもできます。
甲手の手の内に鹿革が使われるようになったのは、丈夫なうえ細かい穴がたくさん開いていて通気性がよいからだとか、袴の表の五本の襞(ひだ)は仁義礼智信を表していて、裏の折り目は忠と孝を表しているのだということを知らなくても、剣道はできてしまうのです。
私たちは、とりあえず至る所で一礼し、声を揃えてあいさつすれば、それが礼儀を教えているのだと思い、満足していないでしょうか。
そのお辞儀は、何のためのお辞儀なの?と聞かれたら、その問いに相手から目をそらさずに落ち着いて答えることができるでしょうか。
こういう話をすると
「硬いこと言うなよ。そんな古いことばかり言ってるから剣道界は閉鎖的だと言われるんだ」
と思われがちです。実際そんなことを言われた経験が私にはあります。
■剣道を学ぶ
昇段審査に関する文章をたびたび書いていると、読者の方とのやり取りで「審査の時の着装はどうしたらいいのか」という話題になることがあります。
私は、「着装も含めて剣道だと思います」と答えます。
作法について学ぶことも、剣道具や剣道そのものの歴史を学ぶことも含めて剣道だと思います。あらゆることに人間形成に必要なことが含まれているはずが、そこに触れる機会がないまま試合に勝つためのスキルだけを追及していけば、それは人間形成にはならないかもしれません。ひょっとすると、勝ち負けの強さが歪んだ上下を作り出し、結果的に冒頭に書いたように「ロクな奴がいない」という状況を生み出してしまうかもしれません。
そうは言っても「剣道部の三年間で理不尽な扱いを受けたことがある」というエピソードを語れてしまう人もいるでしょう。ただそれは、剣道でなくても起こりうることですし、もし剣道でそれが起こってしまうとしたら、その理由は剣道を正しく真剣に学んでいないから人間形成ができていないということに繋がるのではないかと思います。
もし剣道の目的が、試合に勝つことに特化せず、稽古の時間に運動だけではない座学的な含まれていたらどうだろうかと思うことがあります。
例えば週に3回の稽古のなかで、1回は座学の時間があり、そこで剣道の歴史や道具に関する知識を学ぶ時間があったら…
入門の時点から作法について意味合いを含め丁寧に教え、身に着けるところまで追い求めたら、それはそれで面白いのではないかと思います。
茶華道などのお稽古でお作法を学ぶのに意味がない、という人はあまりいないのではないでしょうか。剣道もそこまで徹底したほうがかえって深みが出るし、自然と合理性が生まれ、他者理解と尊重にもつながると思いますが、そこまで学んでいないから「そんなの気にしなくていいだろ」という人が出てくるのは想像に難くないことです。
剣道が強い人にはあこがれますが、「剣道をよく知る人」があこがれの対象になってもいいのではないかと思います。
■今回のあとがき
私は剣道を運動というよりは文化芸術だと捉えています。
文化芸術は、その奥深さに触れることで心が豊かになり、人間性にも影響するものです。剣道だってそうだろうと思ったとき、私たちが日々取り組んでいる剣道で心が豊かになるために何が必要なのか、一度見直す時期に来ているような気がしてなりません。
伝統を古い、硬いと決めつけて目をそらすのではなく、これまで伝わってきたものをよくよく見なおしてみると、剣道の魅力にあらためて気づくことができるのかもしれません。