福永武彦「風土」~ベートーヴェンの「月光」ソナタとともに
「満月には少し欠けた月が、輝かしく中空に浮んで松の樹の上を森閑と照らしている。空には雲一つなかった。遠い波の音、そして庭一面の虫の声にまじって、「月光」奏鳴曲の旋律を聴くように思った。
(芳枝は)むかしこの曲を弾いたことがあった、と思う。(略)そうだった、あれはわたしの十九の年の夏、パパも聞いていらした、桂さんも、太郎も。輝かしい夏、太郎とわたしとが結婚の約束を交わしたのはあの夏だった。そして桂さんもわたしを愛していらっしゃったのだ。もう十五年も昔のこと、そしてわたしはまた、人を愛し、その人と生きようとしている。」
桂昇三という画家が三枝という家を探してくるところが物語が始まる。桂は16年ぶりに旧知の三枝芳枝を訪れた。彼女は桂の親友であった三枝太郎の未亡人で、かつては密かな恋心の対象だった。
三枝芳枝は裕福な名家の娘で外交官である太郎と結婚してパリにわたるが夫は画家になると言って仕事を辞め、絵を描くうちに交通事故で急死する。芳枝は娘の道子を連れて帰国し、海岸にある実家の別荘で暮らしてきた。15歳の美少女道子は生気に溢れている。道子に恋する遊び友達の早川久邇は、ピアノが上手くいずれピアニストないし作曲家になりたいと思っている。
三枝芳枝が桂昇三の前で「月光」を弾くシーンや早川久邇が皆の前で「月光」を弾くシーンでは、登場人物四人が生きてきた人生や恋愛模様や心理の交錯が小説の中で叙述され、ベートーヴェンの「月光」ソナタはこの物語全体に流れる通奏低音になっている。上記の場面は、未亡人三枝芳枝が桂昇三の愛を受け入れる最後の場面で印象深い。登場人物の台詞が美しく、非日常の世界に浸れるのでお薦めです。