人を信じるための器
今の私は、人を信じるための器を広げる修行中、らしい。
生きていると、「それでも人を信じられますか?」と試されるような出来事が何度も起きるけど、それにYesを言い続けることで器を広げていく。
例えば、子供のこと。
不登校状態でこの先の見通しが立たないけれど
家庭教師の時間以外、全く勉強していないようだけど
最近では昼夜逆転にもなりつつあるけれど
…それでも信じて見守れますか?
と、問われ続けている。
時々noteに不登校の話を書いていて、子供は今の状態でも心配なく大丈夫だと書くことがある。
書いている時はもちろん、本当にそう思って書いている。
それでも、ふと不安が襲ってくる日もある。
そんな時は、無理に信じたふりをしなくてもいい。
不安になる時は意識が他人(例えば子供)に向きすぎているので、他人ではなく自分に意識を向けてみたらいいと思う。
何故不安になるのかという理由を、他人ではなく自分の中にないか探ってみる。
すると本当は他人が原因なのではなく、自分の方に原因があることに気付くことが多い。
例えば幼少期の環境から作られてしまった考え方の癖が影響していたりする。
でもこれは自分が「悪い」というものではないから、自分を責める必要はなく、まずはそこに気付ければ良いと思う。
(なので、気分が落ちている時にはこの考察はしない方がよい)
気付くことができたら、徐々に今までの固まった考え方が変わっていく。
例えば、子供が勉強をしないことについて。
私が育てられた環境では、親は私の勉強に対してとても厳しかった。
でも自分はそれなりに勉強が好きだったから、親の考えと自分の適性が合っていたと思う。
自分が子育てをする時もつい自分基準で考えてしまいがちだけど、適性や興味は人それぞれ。
「子供にとって大事なものは、もっと他にあるのかもしれない」という視点で見ることができるようになったら、勉強にそこまで執着する必要はないのかもしれないと考えられるようになった。
少し前の自分を振り返ってみると、私は全然人を信じてこなかったんだな、ということに気がついて愕然とした。
器を広げるにはそれなりに痛みもしんどさもあった。
でも、人を信じられるようになってきたら、幸せを感じられることが増えた。
器を広げるための修行は、きっと自分が幸せになるための道なのだ。