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中学生の自分を救いに行く

先日の選挙は、今の家に引っ越してから初の選挙。
指定された投票所は、母校の中学校でした。

今でも中学校の前を通ることは時々あるけれど、中に入るのは数十年ぶり。

当時と変わらない風景に懐かしさを感じるのかなと思っていたけれどそうではなく、
中に入ると、心がざわついて苦しくなってしまいました。

私にとって、一番辛かった時期のひとつが中学生時代でした。
楽しいこともそれなりにはあったと思うのですが、ほとんど思い出せません。

今日は、中学生の頃の自分を救いに行くためにこの文章を書いてみます。
(しんどい話がでてくるので、いま調子が良くない方は読まない方がいいかもしれません)


中学校はあらゆる場面で「同調圧力」が強いところでした。

同調圧力、私は大嫌いなので
女子の友達グループはめんどくさくて仕方がなかったし
部活の先輩からの押さえつけも意味がわからなかったけれど
理不尽ながらも当時は従うしかないと思ってたので、周りから浮かないように必死に頑張っていました。

(辛かった原因を周りのせいだけにするつもりはなく、
自分の性格上の問題や選択の間違い、時代的に仕方がなかったこともあったと思います)

中3の時に、部活の同学年女子全員から数か月間無視される、という事件が起きました。
無視の理由を聞いたけれど、どんな話だったか忘れてしまったくらいにくだらない理由だったと思います。
全員が完全無視というわけではなく、話す必要がある時には話してくれる人もいましたが、
私を無視しなければ自分が同じ目にあうと思ってやっていたのだろうと思います。
まさに同調圧力の世界だなと思いました。
こんな頭の悪い(学力的な意味ではなく)人たちと一緒にいるのは嫌だけど、この人たちに気に入られないと自分の居場所が無いのかと思うと絶望しかありませんでした。

当時の中学校の部活動は、一度入ると余程のことが無いと辞められない、という環境でした。
私のケースも「余程のこと」に該当していたかもしれないけれど
顧問がとても怖い人で(昔の熱血教師タイプで体罰あり)
辞めると言ったら何をされるかわからないと思っていたので何も言えませんでした。

そんな状況になったので学校に行くのが辛かったけれど、
私にとっては家が安心できる場所ではなかったので、まだ学校にいた方がマシでした。
昔、近所の子から意地悪されたことを母親に訴えたら何故か逆に怒られたので、母に相談するという選択肢はありませんでした。
家業のため家には家族以外の大人がしょっちゅういたし
1日だけ学校を休んだら両親とも大騒ぎになったりしたので、きっと家にいても休まらないと思いました。

クラスでは普通に過ごせていたし、夏の試合が終わって部活を引退したら部活の人とはほとんど関わらなくて済む。
無視の首謀者と同じ高校に行くことはまず無いから、今だけ我慢したらいい、と考えていました。

当時の心の拠り所は、勉強でした。
勉強ができることが親に愛されるための手段でもあり、親の望む進学校以外は認められないような状況だったけれど、
それでも、学ぶことは純粋に好きでした。

中学レベルだと、まだやればやるほど結果が出せたので、ゲームのように楽しんでいた部分がありました。
同じ学力レベルの子たちと切磋琢磨しあうのも楽しかった。

「人は簡単に人を裏切るけど、学びは裏切らない」とその時思ったし、今でも思っています。
心の拠り所は他人に求めず、自分で作ればいいのです。

でも、「学び」が拠り所になりうるかどうかは人によるのだと、後に子育てを通して知りました。
私は息子が学校に行けなくなった時、学校には行けなくても学びに楽しさを見出してくれれば、と当初考えていましたが
息子は学校の勉強をむしろ辛いものと捉えていたので、逆効果でした。
「学び」の部分は人それぞれ入るものが違うし、それは何でもいいのだと思います。

中学のこの件以来、人に拒絶されることがすごく怖くなり、それまで以上に人の顔色をうかがうようになったこと、
人を信頼するのが難しくなったことが長い間の後遺症でした。

だけど、今はもうあの同調圧力の世界の住人ではないので素の自分を出しても大丈夫だし
素の自分を知っても関わってくれる人のことは信頼できるので
少しずつ、後遺症から脱しつつあります。

当時を振り返ると、辛かった時の自分の選択は間違ってなかったと今でも思うし、
何より、自分に対して頑張ったことを肯定してあげられるようになったので
思い出すのはしんどかったけど、書いてみて良かったと思います。

読んでいただき、ありがとうございました。

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