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【アイドリング編】「英語を話すことが怖い」と日本のジャッジメント文化。
こんにちは。
今回は「ジャッジメント」について書きたいと思います。
現在、わたしは「英語を話すのが怖い状態から、一歩前に踏み出そうと思えるマガジン。」というのを作ろうと、色々試行錯誤しています。その中で、飛び出てきたトピックが「ジャッジメント」でした。
「ジャッジメント」と「英語恐怖症」は、とても深くつながっている感じています。そこで、今回はマガジンのアイドリングとして、この記事を書くことにしました。
皆さまは「ジャッジメント」と聞き、どんなことを想像しますか?
わたしが初めて海外留学した頃、ホストファミリーからこんな言葉を受けました。
“We don’t judge you, we don’t judge any people.”
「私たちはあなたをジャッジしないわ。誰のこともジャッジしないの。」
この言葉を受け、わたしは「…どういう意味?」と頭の中がハテナだらけになりました。
今回はそんな「ジャッジメント」について書きたいと思います。
日本語に訳せない「ジャッジメント」とは。
英語のjudgementやjudgeを辞書でひくと、こんな言葉が出てきます。
judgement (名詞) 判定、判断、判決
judge (動詞)判断する、判決を下す、批判する
留学当時のわたしは、「人を判断する…ってどういう意味?」となりました。
今ではカタカナで「ジャッジする」という言葉が出てきていますが、当時はそんな言葉もなく、感覚で読み取っていくしかありませんでした。
英英辞典で調べてみると、judgeはこんな意味合いになります。
judge (動詞) - form an opinion or conclusion about. 「〜についての意見や結論を形作る」
つまり、日本語の「判断する」とは少し違い、「(その人や物事に対して)意見を作ること」「(この人/その物はこうだという)結論を作ること」を意味します。
日本語でも「見た目で判断するな」は、よく聞きますよね。実は見た目以外にも、ありとあらゆる「決めつけ」をすることが「ジャッジすること」になります。
「日本人?じゃあお寿司が好きだね!」
「この人はこんな喋り方だから、仕事ができない人。」
「この人は返事が素晴らしいから、私生活もきちんとしている。」
悪気なく、相手のことをこんな人だと「予想して決めつける」こともジャッジメントになります。
日本語にないのに、日本に根付いてしまったジャッジメント文化。
日本語に訳せない言葉、ジャッジメント。なのに、他人や自分を悪気なくジャッジしてしまう人は多いと感じています。
その理由を3つ、書き出してみました。
1 日本の教育のあり方。
1つ目は日本の教育のあり方です。日本の教育は「これが正解だよ」と、正解を教えるやり方です。
これは正解で、これは間違い。
白黒つけて、分かりやすい。
この思考法に小さい頃から少なくとも義務教育の9年間は触れることとなります。
すると、これに沿って他の物事を考えてしまったり。。。
これは良くて、これは悪い。
これは正しくて、これは間違い。
その上、そこに理由がつきます。
算数などの教科の中であれば、明確な答えがあり、論理的な理由がつけられますが、学校の外の世界はどうでしょうか。
ほとんどの物事に明確な答えはなく、その答えの理由はその人の主観となります。
「この人は良い人。だってゴミ拾いしていたから。」
この思い込みこそ、ジャッジメントとなります。そして、思い込みをしていることにすら、気付かないことが多い。正解を信じて、正解が間違っているとは疑いもしないからです。
2 日本の社会のあり方。
2つ目が社会のあり方です。
日本はルールを大切にして、規律正しいふるまいや行動を人に求めます。
「おもてなし」として、日本が海外から称賛されるのも、この社会のあり方にあると思います。
ルールを守り、規律正しく生きる。
とても良いことの反面、そんな社会で生きづらくなる人も多い。その理由は、「良いこと」と「悪いこと」を常にどこかで判断している自分や周りの人がいるからではないかと思います。
この判断が「周りの目」となり、いつもどこかで見張っている/見張られている心の状態が作り上げられます。
私はカナダに住んでいるのですが、「服装」にジャッジメント文化が表れているなぁと感じます。
こちらの人は、自分の体型や周りの目などは気にせず、夏には短いスカートやパンツを履く人が多いのです。理由はシンプルに暑いからだったり、好きだからだったり。
これは、他人の判断(良いと思われる/悪いと思われる)より、自分の気持ちを優先した結果なのだと思います。
そうすることで、自分も他人を服装ではジャッジしない。そんなカナダのジャッジメント文化を感じます。
一方で、日本ではこんな考え方をする人が多い印象です。
「今日これを着るのはちょっとやめておこう… 〇〇さんが来るかもしれないし。」
もちろんこれは、トラブルを未然に防ぐ自己防衛なのですが、その前の前提に「〇〇さんはわたしのことを服装で判断する」というジャッジが存在します。これこそが窮屈を生んでいのではないかなぁと感じています。
3 「空気を読む」「先を予想する」文化。
3つ目は、「空気を読む」「先を予想する」文化です。日本ではバックグラウンドが同じ「日本」である人と過ごす時間が多いため、相手が言わなくても何をして欲しいか読み取ることができる人がいます。
もしくは、場の空気を読んで何か行動ができる。これらの能力は、カナダ人からとても驚かれます。
カナダは移民の国です。一歩外に出れば、目にする人は色んな国からの人々です。私の場合、外に出なくてもフィリピン系カナダ人の夫が常にとなりにいる状態です。
こうなると、バックグラウンドが違うので予測できることが限られてしまいます。
「フィリピン人だからこれは食べないだろう…」
と思ったものを、美味しいと言って食べてくれたり。
病院で「この白人さん、首までゴリゴリのタトゥーが入っているからバイトの看護師さんかな」と思ったら担当医だったり。
黒人の40代女性が、日本人の30代女性(私)よりもパソコンを使いこなし、タイピングが早かったり。
…
そうなんです。
分からないんです。
「この人はこうだろう」と予想し決めつけると、ことごとく裏切られます。
そんな環境では、良くも悪くもジャッジメント文化が育ちません。
空気を読んだって実は読めてなかったり、先回りをして手助けしようと思っても、その人の行動の先が読めなかったり。
日本人の「空気を読む」「先を(相手の行動を)予想する」という行動は、協調性だったりメリットがたくさんありますが、ジャッジメントにおいては、相手に対する決めつけにつながってしまうと感じます。
人は変わるもの。
「あの人はこれが好きだから、これを用意しておこう。」(と思ったら相手の好みが変わっていたり。)
時には相手の好みや行動を、あれこれ予想するのを一旦ストップして、さりげなく直接本人に聞いてみるのも良いかもしれませんね。
私は、日本の教育のあり方も、社会のあり方も、空気を読む文化も、嫌いではありません。むしろ好きです。
日本教育の「正解を教える」やり方のおかげで、日本人の数学の力はとても強いです。
日本の「周りの目をきにする」社会のあり方のおかげで、日本人のマナーの良さは海外からも称賛を受けるほどですし、日本の治安の良さを保つことにつながっていると感じています。
ジャッジメント文化は、副産物として日本で育ってしまったんだと捉えています。
「英語を話すことが怖い」と「ジャッジメント。」
残念ながら、英語学習(英会話)とジャッジメント文化は、とても相性が悪いと思います。
「英語恐怖症」という言葉ができて、「英語を話すことが怖い」と多くの人が感じる理由は、ここにあると感じています。
英会話で1番大切なことは、発言量です。多く話した人が伸びます。話してみないと始まりません。
海外という場所に身を置き、「話さないと致命傷になる」という環境では、否応なしに英語を話すことになりますが、そうでない限りは避けることができます。
日本のジャッジメント文化に慣れていると、「こんなつたない英語を話したら、周りの人、特に日本人からどんな風に思われるだろう。(ジャッジされるだろう。)」と怖さを感じることは、当たり前だと思いました。
何事も新しいことを始める一歩は、「失敗したらどうしよう」と恐怖がともなうことが多いです。その上、人からジャッジされる。怖くないほうがどうかしてるのかもしれません。
ピカチュウから学ぶジャッジメント
話は180度変わりますが、Netflix シリーズの「ポケモンコンシェルジュ」というお話にふれたいと思います。
たまたま「息子が興味を持つかな?」と思ってつけたのですが、息子ではなくわたしが見入ってしまい、最後には泣いていました。
第4話で、主人公は人見知りのピカチュウと出会うのですが、そのエピソードの中にこんな主人公の言葉があります。
ここにはいろんな子が来てるんだよ。
暗いところが苦手で怖がりなヨマワルとか、
気弱なデルビルとか、
踊るのを恥ずかしがっちゃうオドリドリとか。
面白いよね。
ここに来たばっかりの時はね、私も「大人らしくしっかりしなきゃ」とか「コンシェルジュらしくカッコよくしなきゃ」って、ずーっと考えてたの。
でも、そうやって決めつけてたら
そこから一歩も動けなくなっちゃう。
だからピカチュウも、無理にピカチュウしなくても良いんじゃないかな?
このエピソードは、「私たちはみんな「日本人」というポケモンで、みんな同じと決めつけているけど、実は1人1人違って、みんないい。」というメッセージを送ってくれているように感じました。
見た目や雰囲気の要素は、目に入ってきてしまうのでさけられません。しかし、それだけで判断しない/されない環境は、「あなたはあなたのままで大丈夫だよ」というメッセージをうみ、おおらかさを生むのだと感じています。
自分がジャッジしている物事に気付き、一旦やめてみる。
先ほど、日本の教育のあり方や、社会のあり方、空気を読む文化などが理由で、日本のジャッジメント文化が育ってしまった、と書きました。
しかし、日本の教育を受けた人全員が、同じ考え方をするでしょうか。
日本の社会にいる人全員が、同じ考え方をするでしょうか。
実際には、日本人でも、考え方や捉え方は人それぞれです。
人それぞれということは、自分は「つたない英語を話している」と思っていても、他人から見たら違うかもしれないということ。
英会話(特に英語の発音)に関しても、一人一人が「こうでなければならない」を捨てて、話している人をジャッジせずに、そのままあることだけを見てみることが、「英語恐怖症」をなくす第一歩だと感じています。
電車の中で英語を話している日本人と海外の人を見て、どんなことが思い浮かぶでしょうか。
英語が上手いや下手は置いておいて
「話しているなぁ」
「笑っているなぁ」
「コミュニケーションが取れているんだなぁ」
と、あることだけを見るトレーニングをぜひ試してみてください。ポイントは「良い」「悪い」は一旦置いておく、です。
あることだけを見る力は、ジャッジメントをやめたい時はやめれる力へつながります。そこから自分へ、そして他人へのおおらかさが生まれ、やがてその「おおらかさ」は、恐怖心までもを包み込んでくれます。
もし良ければ、英語以外にも、ぜひ一度あなたの中にある「良い、悪い」と決めていることを外してみてくださいね。何か新発見があるかもしれません。
最後に。
今回、「英語を話すことが怖い人へ。一歩前に踏み出せるマガジン。」のアイドリングとして、この記事を書きました。
マガジンの次の記事は「傷を癒す」をテーマに書こうと思っています。
わたしは10年ほどカウンセリングに通っていた経験があるのですが、その中で「過去の出来事の記憶は、ときどき編集しなければいけない。」と学びました。
過去の出来事は変えることができません。
しかし、その出来事に関しての「思い込み」は変えることができます。
その「思い込み」に気づくこと。
そのためには、自分がジャッジしていることに気付くことが第一歩となります。
これまで、英語で嫌な思いをしたことがある人にとって、その「嫌な思い」をジャッジせずに受け入れる。
そして、「もしかして、自分はこう感じていたけど、本当はそうじゃなかったかも」と視野を広げてみる。
そのためには、ジャッジメントについて書く必要があると感じて、今回の記事を書きました。
今後の記事の予定はこちらです。↓
記事② 英語を話すことが怖い人へ。からかわれた経験がある人は発音が良かった証?!
記事③ 英語を話すにあたり、理想が高い、プライドが許さない、間違えることが恥ずかしい人へ。
記事④ 継続は力なり。なぜ自分は英語を学ぶのかを明確に持つために。
記事⑤ 英語を話す上で大切なこと3選。通じること、何を言うか、そして受け入れる姿勢。
記事⑥ お家で1人でできる練習方法。英語を楽しめる人、英語を好きになれた人は必ず伸びます。
この記事が少しでも多くの、英語に悩める人の役に立てれば幸いです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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