あなたは「人は変わる」と考えますか?ロンドン観劇日記(6)『Groundhog Day』
突然ですが、グラウンドホッグ・デーという日をご存知でしょうか。
日本ではほぼ聞かれない風習かと思われます。
もともとは、クリスマスの40日後に祝われるキャンドルマスという風習でした。この風習自体の記録は西暦380年まで遡るといわれています。
次第にこのキャンドルマスは、天気予報、未来予測に関連づけられるようになりました。英語ではこのようなことわざが残されています。
またドイツでは
といわれるようになります。
こうして動物が天気予報、未来予測のジャッジをするという風習ができあがります。
17世紀末に、ドイツからの最初の移民がアメリカペンシルバニアに入植します。この入植と同時にアメリカにこの風習が持ち込まれることになりました。ヨーロッパではハリネズミやアナグマを用いていたものの、アメリカには存在しませんでした。
そこで遂にグラウンドホッグが登場します。
1887年に初めてグラウンドホッグ・デーという名前がペンシルバニア州で使われました。外にでてきたグラウンドホッグが、自身の影に驚いて巣穴に逃げ込んだ場合、あと6週間は冬が続く。反対に影がなければ春の訪れが近い、というものです。
このグラウンドホッグ・デーを取材するために田舎町を訪れた、
有名天気キャスターのフィル・コナーズを主人公とした映画『グラウンドホッグ・デー』は、1993年に公開されました(日本では『恋はデジャヴ』という名前で公開されました)。その舞台版が、この度ロンドンのテムズ川南側の劇場 The Old Vicで上演されました。
The Old Vic自体は2回目の訪問。作品自体は3つ目の鑑賞でした。
The Old Vicとの初めての出会いはロンドンではなく、ニューヨークでした。
The Old Vicの名物となっている『クリスマス・キャロル』が上演されていたのです。
その舞台の美しさに惚れ惚れしたのを鮮明に覚えています。
劇場に入ると、数名のミュージシャンが、ケルト音楽を感じさせる軽快かつ牧歌的な音楽を演奏しています。数えきれないほどのランタンが舞台を照らし、開演後もその美しい照明が、スクルージの冷たいモノクロな現実と夢の出来事を、彩ります。後半、スクルージが改心し始め、お金を貯め込むのではなく、人に施しを与えるようになります。
2階席からは食べ物の入ったバスケットが、1階席では後方の席から、次から次へと、パンや果物が前の人に渡されていき、それらが舞台に集まります。
この時、客席全体が街のようになったのが、とても感動的でした。
さて今回の『グラウンドホッグ・デー』ですが、会場に入ると、
複数の画面が並び、どの画面でもフィルの番組が流れています。
自信満々な笑みや態度が、「いるよな〜こういう人」と実在の人を連想させ、本編の皮肉のように感じさせました。
開演すると、しばらくは普通に進みます。
田舎町にフィルが到着し、その田舎っぷりを馬鹿にし、
退屈そうにグラウンドホッグ・デーをレポートし、
1分でも早くニューヨークに帰りたがる。
そんな時、吹雪で道が閉鎖されその日のうちに帰れなくなってしまいます。
一夜明け、目を覚ますと、昨日聞いたはずのラジオや外の騒ぐ声が聞こえてきます。そう、グラウンドホッグ・デーが繰り返されていることにフィルは気づきます。
これは夢なのか?
そのまま夜を迎え、一夜が明けます。
すると、、、またグラウンドホッグ・デーが繰り返されているのです。
同じ日がひたすら繰り返される奇妙な世界に入り込んでしまったフィル。
はじめのうちは、何をやってもまっさらになる、という風に解釈し、
交通違反をしたり、盗みをしたり、人に悪戯したり、します。
地元テレビ局のスタッフ、リタを口説こうとしますが、
その態度から振られてばかり。
ただそれにも飽きがきて、どうにかこの状況を脱しようとし、リタに打ち明けます。もちろん信じはしないのですが、一瞬一瞬を楽しむこと、そして人に何かをしてあげることを提案します。
渋っていた写真撮影に気持ちよく応じたり、
お金のない貧しい人に財布ごとを恵んだり、
淹れてもらったコーヒーに感謝したり、
テレビ局スタッフに差し入れをしたり。
するとその様子を見ていたリタが好意を持つようになり、一夜をともに過ごすと、グラウンドホッグ・デーの次の日になっていた、繰り返しが終わっていた、という結末です。
舞台での上演中、丸一日を何度も繰り返すわけにはいかないので、
「バーのシーン」「朝起きたシーン」「グラウンドホッグ・デーのお祝いのシーン」といった特定のシーンが何度も続けて繰り返されます。
数秒で3分前見た景色に戻っているので、観客である僕たちもフィルと同じような、変な感覚に陥るのです。これは生の舞台でおきているからこそ面白い事象です。
コロナ直前の2020年にブロードウェイで『JAGGED LITTLE PILL』という作品を観ました。この物語では家庭のストレスから母親がドラックに手を出してしまうのですが、手を出そうとするシーンで、購入した瞬間、それまで起きていたことが逆再生されていったのです。歩いてくる人も、後ろ向きに戻り、モノの動きも全て数分前観たものが綺麗に逆再生されていく。当時、衝撃を覚えました。
今回の『グラウンドホッグ・デー』では時間の方向性は同じものの、似た面白さを感じることができました。
さて日本語のタイトルはフィルとリタの関係性のことを言っていますが、
この物語は、ただのロマンス物語なのでしょうか。
The Old Vicの芸術監督Matthew Warchusの言葉を辿ります。
冒頭から中盤までのフィルは、はっきり言って好きになれません。
周りの登場人物も同じく、フィルに対していい気持ちをもっていない。
一方でフィルは、自分のことが好き。フィルは完全なエゴの塊と化しています。
そんなフィルは、グラウンドホッグ・デーが繰り返すなかで、
自身の過ちの気づかされますが、実際にそんなことは起き得ないわけです。
『グラウンドホッグ・デー』ではフィルがゲームの主人公のように、
ゲームオーバーしては、チェックポイントから再出発します。
ゲームの中で出会う人たちは0ベース、フィルだけは失敗の原因とその解決法が蓄積されていきます。
一方で現実では、出会う人たちは0ベースになりません。傷つけられれば覚えているし、怖い、嫌なやつという印象は残ります。極端な例でいえば、服役をしていた人を考えてみましょう。何らかの罪を犯して、服役し、出所した方を、僕たちはどのように受け止めるでしょうか。「罪を償ったのだから、再出発を応援したい」と綺麗ごとをいうことは簡単です。
しかし実際、日本では満期出所者のうち約50%が再び服役している。
つまり繰り返しているのです。
結局「人は変わらないものだから」という言葉で、
簡単に考えることを終わらせて良いことではないと僕は思います。
仕事に就けない、家を借りられない、新しいコミュニティに入れない。
これが「人は変わらないから」という理由で、機会を与えられない。
周囲の環境に責任がないといえるでしょうか。
仕事に就けなければ、収入がなく、食うために盗みをするかもしれない。
またはたった数千円のために強盗を犯すかもしれない。
眠る場所がないから不法侵入をするかもしれない。
話す相手がいないから誘拐をするかもしれない。
またはそのようなことが当たり前のようにできているひとを妬んで、傷つけるかもしれない。
個人的には、その立場になった人でないと
自分の周りの生態系の重要さ、
生きていると感じるために必要な生態系の構成要素についてはわからない、
と思います。周りが決めつけ、思い込みをやめない限り、解決しない問題とも考えられます。
愚かな人間をみて、私は違うと安心することは簡単です。
リアリティショーが人気の理由のひとつは、ここにあるのではないでしょうか。もし自分が愚かでなかったとしても、どこかしら欠点はある。
誰一人完璧な人間など存在していないのですから。
(もし完璧と思っているのであれば、劇中前半のフィルと仲良くなれそうです)
この「繰り返し」に関しては、ニーチェ、アリストテレス、輪廻転生の思想とともに、考察されていたので、改めて別の記事で考えてみたいと思います。
ちなみに映画『グラウンドホッグ・デー』は大ヒットし、
「まるでグラウンドホッグ・デーだ=退屈だ」という比喩に用いられるようになったとか。
名作映画と言われる所以を探しながら、観直してみるのも面白いかもしれません。