理系女と文系男/第22話;貴方と会えたから
大学三年生になると、そろそろ大卒後の進路も考えなければいけない時期になってきた。
数年前に姉は父の希望通りに大学院に進学したが、進学後に父からこう言われていた。
「大学院なんて学歴になったから、嫁の行き手は無くなったな。いや、〇〇大だったら学歴にならんか」
他の方が聞いたら憤慨ものの発言だろうけど、父はこういう無神経な発言が多かったから、姉はそこまで怒っていなかった。しかし私はイラっとしていたし、自分の進路に際してこの発言がどうしても脳裏を過った。
(ケイなら、自分より高学歴の女なんか嫌とか、そんな詰まらないこと言わないよね? だけど、私はケイとは結婚できなさそうだからね…)
父は、私にも姉と同じように大学院に進学して欲しいと思っていた。しかし、そんな父が姉に言った発言が私の足枷になっていた。
だから私は学部で大学を卒業し、就職する道を検討し始めていた。
それはそうと、父が姉に言ったことよりも、ケイが私に言ったことの方が、私の中では衝撃度が上だった。
「大学で彼氏ができたら、すぐ俺に言えよ」
ケイは大学で好きな人ができたのだろうか?
それとも、お家の会社の関係で許嫁でもいるのだろうか?
あの日以来、私の中には不安が燻ぶり続けていた。
大学にいる間、ノンアルコールのプチ同窓会は続いた。文筆部の四人に加えて、カブト先生という構成のままで。
これは大学三年生の8月にあった会で交わした会話である。
「やべーな。未だに中国語の単位が取れん。本当に四年で卒業できんかもな」
ケイは実際問題、かなりヤバいようだった。タケ君が「右に同じ」と続いて笑いを誘っていたけど、笑い事ではないのでは?
「どうせ多少コケても、親父の会社に引き取ってもらえる…。そんな考えが根底にあるから、こんな調子なんだろうな」
実はケイ、随分と冷静に自己分析ができていた。ここまで自分を解かっているのに、どうして改善しないのか? と私がツッコミを入れるより先に、カブト先生が同じことを言った。
そしてケイは、ボヤきついでにこうも言った。
「まりかくらいかもな。まともに四年で卒業して、まともに就職できるのは」
なんとも縁起の悪い発言。私はすかさずこれを否定した。
「何を言ってるの? そうならないように頑張りなよ。こんだけ鍛えられるくらい、地道に努力できる人なんだからさ」
私はそう言って、逞しくなったケイの二の腕を突いた。この時、ケイはやたら真剣な面持ちになった。
「そこは認めてくれてんのか…。だよな。いっちょ頑張ってみるか」
ケイは私に突かれた自分の二の腕を眺めつつ、しみじみと呟いた。この時、私の心境は複雑だった。
(多分、私の為なんでしょう? 私だけじゃないのかな? どっちでもいい。とにかく、誰かの為なら、努力できるんだよね。ケイは)
私がツケルに襲われた後、ケイは筋肉を鍛えるようになった。それは私を守る為に肉体的な強さを求めた結果だと、私は考えていた。そう。この人は自分以外の誰かの為なら、めちゃくちゃ頑張るのだ。
私はちょっと、ここを刺激してみた。
「大学で留年したとか、そんな経歴になったらさ。お父さんの関連会社の方もあんまり採りたくなくなるから、お父さんが頭下げなきゃいけなくなって、負担掛けるんじゃない?」
私に言われて、ケイは唸った。
「確かに、親父の顔に泥を塗ることになるかもな」
私の読みは当たった。ちょっと嬉しくて、私はほくそ笑んだ。
だけどこの時、私は訊けなかった。
「大学で彼氏ができたら、すぐ俺に言えよ」の一言は、どういうつもりで言ったのか?
この後の会でも訊けなかった。
多分、訊いてしまうのが怖かったんだろう。
これがケイを苦しめていたと私が知るのは、大学を出た後だった。
やがて私たちは大学を卒業した。なんだかんだで、誰も留年しなかった。
他地方の大学に進学したケイとタケ君は、地元に戻って来て就職した。シュー君は一時的に、他の地方で働くこととなった。
私は父の意向に反して大学院には進学せず、塾講師という道を選んだ。
まともに考えれば学校教員を目指すべきだったけど、終業時間の遅い仕事なら飲み会が少ないだろうと考えて塾を選んだ。
就職先は、気楽かつ適当に選んだ。と言うか、選ばなかった。
理系の大学生は、四年生になると特定の先生の下で卒業研究を行うことになる。私の場合、これに加えて教育実習とかも絡んできた。だから、あんまり就職活動に力を入れたくなかったし、実はどうでもいいとすら思っていた。
父親は私が塾講師になると決まった時、「まりかは終わった」と嘆いていた。クソどうでも良かった。
そんな経緯で、私はそんなに大きくない塾の大学受験科で働くこととなった。教える対象は浪人と高校生だった。
私立医学部進学コースの一番下のクラスの生物と化学を担当した。
凄そうに聞こえると思うけど、集まっていたのはお金持ちで勉強のできない子たちだ。
塾的に彼らは、『何年間も通ってお金を落として欲しい存在』だった。だから新卒のペーペーに、いきなり二科目も担当させていたのである。
やっぱり世の中は汚かった。
働き始めて間もない6月頃、急にケイからメールが来た。
『ちょっと時間作って貰えないか? どうしても会いたい』
大学二年生までの私だったら、有頂天になっていただろう。
だけど、この時の私はそんなに興奮できなかった。
(何だろう? 別れを告げられるの? それとも告白されるの? そもそも、私はそれ以前の存在かな?)
嬉しくなかった訳じゃない。だけど、不安がかなり強くなっていた。
一体、何を言われるのだろうかと。
だけど、それでも嬉しかった。
約束の日の朝は気張ってメイクした。
因みに約束の日時だけど、土日は私が職業柄難しいから、高校生の授業や個別指導が入っていない水曜日の夕方にした。
かくして約束の水曜日の夕方、私とケイは新幹線の駅近くで落ち合った。学生時代と違って、あんまり待たされなかった。
「おっ。カッコいいじゃん。未来の社長!」
リクルートスーツを着たケイは、私の目に頼もしく映った。かつてより厚くなった胸板が肩幅を広く見せ、黒いジャケットが締め色として上手く作用していた。
ケイは私から賛辞を送られたのだけど、賛辞では返さなかった。
「まりかは…。ミスキャストで教師役に選ばれた、乃木坂の人みたいだな」
私は就職後、コンタクトから眼鏡に変えた。レンズが細い長方形の、メタルフレームの眼鏡に。授業時の服装は、必ずリクルートスーツにしていた。この日はケイと会うので、スカートのものを選んでいた。
眼鏡とスーツは賢そうな見た目を作る演出だったけど、ミスキャストの乃木坂って…。
私は苦笑した。
「スーツの私、青山のCMしてる橋本環奈より可愛いでしょ?」
なんて会話をそこそこに、私たちは適当なファミレスに徒歩で移動した。
ファミレスに入った私たちは、二人掛けの席で向かい合う形で座った。こういう風に対面してご飯を食べるのも慣れたものだ。
ご飯が来るのを待っている間に、ケイは私に名刺を渡した。ケイがお父様の会社の関連会社に就職したことを、私は目に見える形で実感できた。
「なんか、大人になったって感じだね」
名刺を見ながら私がしみじみと言うと、ケイは照れ臭そうにしていた。
「人に渡す機会が無くて、余って仕方ないんだよ。しかし…。こうして社会人らしく名刺持たせてもらえるのも、お前のお蔭だよな」
ケイは私に礼を言っている感じだったけど、何に対する礼なのか私には解らなかった。
私が首を傾げていると、ケイは説明してくれた。
「留年したら、親父に頭下げさせることになるって言ってくれただろ。あれでハッパかけられたんだよ。ありがとな」
そう聞いた時、「私、そんなこと言ったの?」と余計に首を傾げた。だけど、もちろん嬉しかった。
だから、私もお礼で返した。
「私もさ。ケイのお蔭だって思うことあるよ。まだ趣味で戦隊の小説を書いてるんだけど。中学の時に言われてたこと、今は自然と生かせるようになった。ケイに会えたから今の作風になったし、まだこの趣味も続けてるんだろうね」
これはお世辞でも何でもなく、紛れもない事実だった。だけど今度はケイが、さっきの私と同じような反応をした。ちょっとそれが面白かった。
「それはそうと、まだ書いてるって凄いよな。仕事も大変だろ。時間、無さそうだし。折角なら、ネットに投稿とかしたらどうだ? “なろう”とか、いろいろあるだろ?」
ケイがそんな提案をしたのは、ごく自然だろう。だけどこの時、まだ私は自作の小説を一生公開しないつもりだった。理由はいろいろあるが、長くなるので説明は止めておく。
取り敢えず私が自作のものを世に公開したのは、この四年後の話である。
この後は、互いの仕事の話をし合った。私よりも、ケイの職場環境はかなり良さそうだった。
そしてこの一言で、私は半ば確信した。
「幹部の人と同じ名字の若い社員、多いんだよな。ちょっと上の人たちだと、取引先の女の人と同じ名字の人が珍しくない」
社内がどういう状況なのか、容易に想像できた。
(やっぱり、ケイは会社の関連の人と結婚するのかな? そうなんだろうな…)
ケイは今日、「どうしても会いたい」と伝えてきた。どうしても伝えなきゃいけないことが何かあるんだろうと、最初から予想していた。
そして、この時に思った。
(今日、これから私はフラれるんだ)
その後も、近況報告のような会話を暫く続けた。
食事を終えた後、すぐ解散とはせず、暫くその辺を二人でブラブラ歩いた。
何故かビックカメラに入って、店内の一角にあったカプセルトイのコーナーではしゃぎ合った。
「何だ、これ? 恐竜のガチャガチャでイルカが出るとか、ハズレもいいところだろ?」
古代生物のカプセルトイで、【イクチオサウルス】を引いたケイが不満げに言った。すぐに私は訂正した。
「海豚じゃない。【魚竜】っていう海生爬虫類だよ。三畳紀からジュラ紀がピークだね」
私が披露した手持ちの知識を受けて、ケイは「収斂|か」と呟いた。そんな単語を自然に出せるケイは、やっぱり物知りの部類に入る人だった。
ところでこのカプセルトイ、説明書きの小さな紙が入ってたけど、これがなかなか面白かった。
「ねえ。漢字、間違ってない? “ 頭部は補食に適した形状…。恐るべき補食者 ”だって…!」
私が誤変換に気付いてケラケラ笑うと、ケイもそれに合わせた。
「おやつを食べるのに適した形をしてるんだな。んで、恐ろしいスピードでおやつを食べるんだろうな」
このノリは文筆部の時と同じだ。奇妙かもしれないけど、これが私たちの愉しみだった。
その後もブラブラと歩いた。
気付いたら割と長い距離を歩いていて、観覧車を備えている奇妙なビルの近くに来ていた。ふとケイは、その観覧車を見上げた。
「あれ、乗ってみるか? 意外にこういうトコ、来たこと無かったよな」
ケイは観覧車を見上げたまま、そう提案した。これが恋愛ドラマなら、この観覧車の中で指環でも渡されるんだろうけど、その線はほぼ確実に無い。
(これでフラれるんだね。最後の思い出作りか…)
私はそう悟ったのだけど、妙に清々しくその未来を受け入れられた。微笑みながら、「乗ろうよ」と言った。