前回
五月十九日の水曜日、新杜宝飾の健康診断も最終日を迎えた。伊禰は全員の内科検診をして、疲れたが充実感も覚えていた。
そして今年の健康診断、最後に伊禰の元を訪れたのは光里だった。
「本当に貴方には頭が下がります。経理の仕事も短距離の試合も高いレベルでこなされて、加えて社員戦隊まで。お体は健康そうですが、油断大敵ですわよ。休める時は休んで、体力を過信しないよう」
光里に聴診器を当てつつ、伊禰は所見と言うか賛辞を述べる。すると、光里も賛辞を返す。
「万が一倒れても、ウチには名医が居ますからね。安心してますよ」
ニッコリ笑って光里はそう言った。彼女は伊禰の言動に閉口することもあるが、その実は絶大な信頼を寄せている。そんな光里に、伊禰も自ずと笑顔になる。
ところで自分が最後で後ろに待つ人がいないと知っているからか、光里は雑談を始めた。
「そう言えば、【エモい】は最高ですよ。ジュールのやつ、まあまあ自粛してる風に見えますし。これからもアイツが調子に乗らないように、お願いします」
何の話かと思えば、十縷の話だった。
いつの間にか、光里の中で彼はそれなりの地位を得ている。約一ヶ月半の短期間に起きた変化に、伊禰は喜びに近いような不思議な感情を覚えていた。
そして、この流れで光里は続けた。
「ジュールと言えば、あいつお姐さんが気になるみたいで……」
光里の表情が真顔に近いものに変わり、伊禰も表情を少し真面目にする。そんな顔で光里が出した話題は、こんなものだった。
「どうしてお姐さんが素手でしか戦わないのか、理由が知りたいみたいですよ。何かポリシーがあるんだろうなぁって、私も思うんですけど、そう言えば聞いてなくって。この際、教えてくれませんか?」
それを聞かれた時、伊禰はハッとしたように目を見開いた。だがそれは一瞬で、すぐに表情は元の柔和なものに戻った。
「ポリシーなどはありませんわ。武器を使うのが下手だからです。私、野球選手とギター奏者の娘なのに、バットやギターは勿論、基本的に道具が使うのが苦手なんですの」
伊禰が言ったのは、いつもの常套句だった。光里はずっと、これは嘘だと思っていた。しかし、言いたくないなら無理に聞き出すのは野暮だ。
(なんで隠すんだろう? だけど、無理に言わせるのも駄目だよね)
光里は言及しないことにした。対する伊禰は思っていた。
(思想を語る程、馬鹿馬鹿しい話はありません。価値観の違い過ぎる方には理解されず、似た価値観の方は初めから似たお答をお持ちです。この子たちは後者です。おそらく、同じような結論に至るでしょう。ですから、語る必要などありません)
それにしても、ここまで自身の信念を伏せるのも不思議だ。おそらく、それなりの理由があるのだろうが、それは現時点では不明だった。
次回へ続く!