理系女と文系男/第23話;7年と8か月の恋
社会人一年目の6月、急にケイから『会いたい』という旨のメールが来た。
私とケイは仕事帰り、二人で夕食を共にした。
それから街中を二人でブラブラと歩き、やがて観覧車を備えた奇妙なビルの前まで来た。
二人でこの観覧車に乗ることになった。
もうすぐ21時になりそうな時刻だった。観覧車の営業時間は22時までだった。
観覧車の列はまあまあの長さだったけど、そんなに長くなかった。並んでいるのは、だいたい同世代の男女だった気がする。
程なくして、私たちの番が回ってきた。いざ、向かい合う形で私たちは観覧車に乗った。
私は席の脇に鞄を置いた。因みに私の鞄は、教科書と辞書が入っている都合、とても大きかった。また、この頃は携帯をスマホに替えたことで、携帯ストラップを務めていたマイメロはこの鞄の持ち手に移動していた。
鞄を置いた時、ケイはようやくマイメロに気付いた。
「そのウサギ、まだ持ってたんだな」
懐かしむように、ケイはそう言った。まだ私たちのゴンドラが低い位置にある時、マイメロが話題になった。
「当然だよ。この子はケイの分身みたいなモンだから」
本来、このマイメロは私にとって負の記憶の塊なのかもしれない。
私がこのマイメロと出会ったのは、私が宗教勧誘に引っ掛かったから。
私がこのマイメロを持ち歩くようになったのは、帰り道でツケルに襲われたから。
だけど、同時にこの子は私を守ってくれる、ケイの分身に他ならない。負の記憶を上回る存在だった。
そんな感傷に浸りつつあったけど、この男は相変わらず嫌な感じに雰囲気を破壊するのが得意だった。
「結構スカート短いんだな。見えそうじゃん」
鞄の次にケイの目が向いたのは、私の足元だった。
座るとスカートの裾の位置はどうしても上がる。ついでにタイトスカートだったから、ふとももとスカートの裾が作る三角形の穴はかなり目立つ。
敢えて短めのスカートを選んだのは確かだけど…。
「見るな! もう…。高校の時と変わらんじゃん。“ パンチラを合法的に見る方法 ” だっけ? シュー君と二人で、いかに私をしゃがませるか企んでたらしいよね」
私は咄嗟に三角形の穴を手で塞ぎ、軽くケイの足を蹴った。蹴ったと言っても、足先を軽く当てたくらいだけど。ケイは笑っていた。
勿論、私もそんなに怒っていない。勢いで喋って、文筆部の当時を思い出して、懐かしい気分になった。
私たちの箱は中腹より上に来ていた。ケイは窓から臨む景色に目をやり、「綺麗だな」と呟いた。
すると、今度は私が雰囲気を破壊した。
「電気の無駄。そんなに照らさなくてもいい。LEDが “ 前の半分の消費電力で済む ” みたいな触れ込みで普及したけど、前の三倍使ったら意味無いよね」
苛立っていた訳じゃない。これはずっと私が思っていることだ。
聞いたケイは、溜息を吐いた。
「変なトコで理系アピールするよな? そういう目でしか見れないって言うか…」
喋りながらケイは、これを思い出したらしい。
「最初の加他真理でも、紙の本と電子書籍を比べて、エネルギーがどうのって書いてたよな。最初にその案を出した時、ピーさんが入って来て、“ いかにも理系だな ” ってまりかに言ったよな」
私が書いたもの、そして私が案を出した時に何があったのか。ケイは詳しく憶えていた。
それを聞いて、私はまた嬉しくなった。と言うか、嬉しさを抑えきれなくなった。
「ちょ…! 何、考えてんだ!?」
ケイは私の行動に狼狽えた。
私は不意に立ち上がり、ケイの座っている側に移動した。そして脇に置いてあったケイの鞄を手に取り、その位置に自分が座った。半ば割り込む形で。
ケイの鞄は私の膝の上に置いた。
「このポジションなら、パンツ見れないでしょ」
私はケイの顔を見上げつつ、まずはふざけてそう言った。私と至近距離で目が合うと、ケイは恥ずかしいのか目を逸らした。私はクスクスと笑った。
「今、外から見たら、めっちゃ傾いてるんだろうね」
この時、私たちの箱は頂上に達していた。私は思った。
(あと半分しか、一緒に居られないからね…)
残りの時間を満喫したい。それだけだった。
私はケイに寄り掛かり、彼の肩に自分の頭を預けた。
向かい側の席で待っているマイメロは、変わらない優しげな表情で私を見守っている。
ケイは何も言わなかった。
「ディケイドのOPでさ。夏海が士君のバイクのリアに乗るカットがあって。あれ、凄く好きだったんだ。士君の胴にしがみ着く時、アップになるのも良かった」
よく解らない話をする私。ケイは「そっか」と小さく返した。そして、そっと私の手を握ってきた。膝の上でケイの鞄を支える、私の手を。
(このまま時間が止まって欲しい)
私は切にそう願った。
勿論、時間は止まらない。私たちの乗った箱はどんどん高度を下げる。そして、最初の場所まで戻ってきた。
私がケイの隣に座った後、二人の間に会話は無かった。だから、ケイからは何も告げられなかった。
この後、私たちはそれぞれの帰路に就いた。
6月よりも後にも、ケイとは会った。8月と1月に開かれたノンアル同窓会だ。
特に変わった様子は無かった。
カブト先生が「40歳手前だし、そろそろ結婚したい」と言っていたくらいか?
私とケイの間の会話も男女のものではない、普通の友達どうしの会話でしかなかった。
ノンアル同窓会の後、新型ウイルスの感染症の話がニュースを賑わせ始めて、2月になると外出が難しくなった。入試もかなりの影響を受けた。
このタイミングで、私は塾を辞めた。理由は方針の相違だ。
そして私は、学校教材の校正で生計を立てるようになった。一年程度の社会人歴でこんな仕事ができたのは、中学・高校時代の同級生の伝手だった。
富裕層の通う中高一貫校に進学したありがたみを、猛烈に噛み締めた。
ついでに新型ウイルスの感染症の影響で、対人系の職業は難しくなっていたから、校正の仕事は都合が良かった。
そして3月。新型ウイルスの感染症の蔓延を防ぐという名目で、小学校から高校が謎に休みになった頃だった。
ある夜、スマホにケイから架電があった。私は自宅でこの電話を取った。
『事後報告だけど…。2月29日に入籍した』
電話越しだっけど、凄く言い辛そうだったのが印象的だった。
私は一瞬、思考が止まるような感覚に襲われたけど、すぐに気持ちを切り替えた。
「そうなん!? やったじゃん! おめでとう!!」
無理やりだった。私は喜んだ声を出して、入籍したと話したケイを祝福した。
電話の向こうのケイは、凄く申し訳なさそうだった。
『ごめん。まりかには、辛い思いをさせたかもしれないけど…』
ケイはそう言ったけど、私は否定した。
「なんで辛いの? こんなおめでたい話なのに。嬉しいに決まってるんじゃん! ケイは嬉しくないの?」
私の空元気が奇怪だったのかもしれない。
入籍の報告は衝撃的だったけど、精神的な打撃はそれ程でもなかった。もう6月にフラれた身だと思っていたから。
『祝ってくれて、ありがとう』
相変わらず申し訳なさそうに、ケイはいろいろと語った。
まずお相手は、お父様の会社の関係者の娘さんで、私たちと同学年とのこと。
実は大学二年生の時に、お父様から結婚の話をされていたらしい。
そして社会人になった時、親戚の叔母さまからお見合いの話があったそうだ。
6月に私に「会いたい」と連絡したのは、その報告を私にする為だったらしい。
だけど、言えなかったみたいだ。
『カブトさんにこの話をしたら、まりかには言っとけって言われた。だけど会ってみたら、こんな話したらお前が泣き出す気がして…。ピーさんに約束した手前、お前を泣かせられない…って言うのは、言い訳だよな』
話を聞いていると、この件について何も知らなかったのは、私だけのようだった。
でも、それに怒りや疎外感は覚えなかった。
(何? ふるつもりで呼ぶ出したけど、泣き顔を想像したらふれなくなった? どんだけお人好しなん?)
高二の時、ピー先生に「隣のバカ女を泣かすな」と言われたことを、ケイは律儀に守り続けようとしていた。そう思うと、何故か私は笑顔になった。そして目が潤み始めた。
電話の向こうの私の表情を知ってか知らずか、ケイはこんなことも言った。
『正直なところ、まりかが俺をどう思ってるのか、よく解らなかった。まりかレベルなら男を選べるだろうから、俺が選んでもらえる自信も無かった。シューは、“ まりかは確実にケイが好きだ ” って言ってたけど、確信が持てなかった』
私の口から乾いた笑いが出てしまった。
どうして解らんの? 好きに決まってるじゃん!
言わなかったけどさ…。解かれよ!
下線部の登場人物の気持ちが100字以内で書けるのに、どうして私の気持ちは解らないの!?
私は待ってたんだよ! あんたから好きだって言われるのを!
と、言いたかったけど、言えなかった。
代わりに、こんなことを訊いた。
「結婚した人とは6月に初めて会ったんだよね? つまり出会って9か月で結婚を決めたんだ。やっぱり綺麗な人なの?」
私は負けたかった。その女の人に。そうすれば完全に諦められるから。
なんだけど、何処までもケイは私の気持ちを理解していなかった。
『顔はお前の方が綺麗だ』
なんて抜かしやがった。思わず私は声を荒げた。
「何、考えてんの!? ウソでも、その人の方が綺麗って言え! 好きなんでしょう、その人のこと? だから結婚するんじゃないの? それなのに私の方が綺麗とか、その人に失礼でしょう!?」
多分、もう少し声量を上げていたら、姉にマジギレされていただろう。
それはさておき、ケイの声は私と対照的で小さいままだった。
『顔が全てじゃない。それから、お前と比べたくもない。二人を天秤に掛けて、どっちが良いって判断したんじゃないんだ』
どうやら私の方こそ、ケイを理解していないようだった。私はしっかり、ケイの話を聞くことにした。
『もちろん、凄く良い人だ。だから結婚したいと思った。向こうも俺を選んでくれた。会社がどうとか、親父がどうとか、そういう話じゃない。俺とその人の意志だ。俺が彼女を気に入ったから、結婚することにした』
なんだろう? 上手く説明できないけど理解できた。ケイの気持ちが。
いや。解ったことにしただけかもしれない。
「そっか。…結婚式はいつ? 絶対に呼んでよ」
私は自然にそう言った。
新型ウイルスの感染症の影響で、もしかしたら挙式できないかもしれない。だけど、ケイの結婚式を…花嫁さんを見たい。この時、本気で思っていた。
『来てくれるのか? ありがとう…』
このケイの言葉が、この通話の締めになった。
電話を切った後、私はどっと疲れたような感覚に襲われた。
(我ながら、よく持ち堪えた…。ピー先生との約束を、ケイに破らせる訳にはいかなかったから)
ダムが決壊したかのように、目から涙が大量に溢れ始めた。嗚咽も出そうになったけど、姉にブチキレられるから声だけは必死に殺した。
ケイの入籍を祝いたい気持ちは嘘じゃない。彼の幸せは私の幸せだ。
だけど、やっぱり辛かった。
【西野まりか】になりたいという、私の夢が潰えたのだから。
高一の6月、宗教勧誘の人から助けてもらった時、私はケイを好きになった。
それから今日まで、私はケイを思い続けていた。
7年と8か月の恋は、この日で完全に終わりとなった。
(一度も好きって言わなかった…。なんで言わなかったんだろう?)
悔いても仕方ないけど、どうしてもそう思ってしまった。