“成熟”とはなにか
駅にある一画に貼られていたポスターが、ある日違うものに替えられていた。
割と長い間貼られていたポスターなのに、前に貼られていたものがちっとも思い出せない。
思い出そうと努めるが、なぜかそれを脳が拒否する。
きっと思い出すということが、面倒くさいことだからなんだと思う。
そして、キャッチコピーやデザインについて学ぼうと、ポスターを観察するよう意識してしていたつもりだが、結局はなにも得ようとしてはいなかったことに気づく。
日々、小中高生と接していると、“成熟”とはなにか?”ということを、よく考える。
勉強とはひとつ、人間として”成熟”するために行うということでもあるが、なぜ勉強が“成熟“へとつながるのか。
でも、たしかに、よく勉強する子の方が、“成熟“しているようにも感じられる。
そして、気づく。
“成熟“とは、面倒くさいことも行い、そこからなにかを得ていく過程なのかもしれない、と。
小中高生は、進んで勉強したいわけではない。やらないで済むのであれば、できれば勉強なんてしたくない。
好きなことをしたいし、疲れるし、なにより、面倒くさい。
しかし、勉強に取り組む子は、ここと向き合っている。
これがなにか自分の役に立ったり、良い未来へとつながっているんだろうと、うっすらと思っている。
この面倒くさいことを行い、そこからなにかを得ていく過程に、成熟の芽が潜んでいる。
そして、面倒くさいことを誰かの役に立つためにできるようになった人が“成熟した人”なのかもしれない。
ボケーっと生きてると、”成熟した人”にはなれないのかもしれない。
勉強を通して”成熟”を勧める身として、せめて毎日通勤のときに見ていたポスターくらいは、思い出せる人間でありたい。