映画「沈黙のパレード」の構造的欠陥
人気シリーズ「ガリレオ」の9年ぶりの新作映画「沈黙のパレード」が好調なようだ。9月最終週の観客動員ランキングで1位となり、興行収入もすでに20億円を突破している。だが、予想外の内容に少し面食らっている人もいるようで、レビューサイトでも絶賛よりもそこそこの高評価というような意見が目立つ。みんなが抱えている、この映画へのもやもやはなんなのか。個人的な見解をもとに少し解説してみようと思う。
※沈黙のパレードおよび、オリエント急行殺人事件のネタバレがありますのでご注意ください。
オマージュの失敗
多くの人が感じたように、本作はかの名作「オリエント急行殺人事件」をオマージュしていると思われる。オリエント急行は、ミステリーの女王と呼ばれたアガサ・クリスティーの作品で、2017年に名優、ケネス・ブラナーの手によってふたたび映画化されたことで知っている人も多いだろう。列車内で殺人事件が起き、探偵以外の全乗客が共犯だったというどんでん返しはあまりにも有名だ。さらに、共犯者たちの動機は昔起きた子供殺しへの復讐であり、謎を解き明かした探偵、エルキュール・ポアロが法と道義心のはざまで苦悩するのが、大きな見どころの一つと言える。
これを踏まえて沈黙のパレードの内容を振り返ると、類似性は明らかだろう。被害者の遺族を含む関係の深い人々による共犯であり、無力な法と道義心の間での葛藤がこれでもかと描写されている。復讐される人間が、同情のできないクズであるという点も同様だ。そして沈黙のパレードの最大の問題点は、このオマージュの失敗に端を発した構造的欠陥にある。オマージュ元と展開や結末がかぶらないように工夫した結果、観客が置き去りになり、最終的には作品のテーマの価値を損なってしまっているのだ。
置き去りにされる観客
では両作品の違いを挙げながら考えてみよう。沈黙のパレードは、被害女性の思い出を振り返る町の人々の回想から始まる。原作小説を読んでいなくても、勘のいい人ならこの段階でオリエント急行との類似性に気付いたかもしれない。つまり、冒頭から複数の共犯による復讐殺人であることを示唆しており、終盤になってようやく共犯による殺人だと明かされるオリエント急行とは逆の構成となっている。仮にオリエント急行の内容を知らなくても、あれだけ繰り返し回想が描写されれば復讐殺人の可能性には思い当たるだろう。
そうなると、観客の関心は「誰が犯人か」ではなく、「どうやって犯行を実行したか」と「どんなどんでん返しがあるのか」の2点に集まることになる。ところが実行方法はかなり早い段階で、探偵役である湯川学によって解き明かされる。復讐相手が寝ている物置に液体窒素のタンクから窒素ガスを流し込み、窒息させるという方法だ。これが特に謎解きと言えるほどの描写がなく、物置の取っ手が取り外せることを確認するとあっさり解答にたどり着くため、早々に楽しみの一つが終わってしまう。素人でも思いつきそうな手段で、専門的な化学知識も大して披露されなかったのも残念なポイントだ。
そうなると、残る楽しみはどんでん返しだ。しかし、終盤までその糸口すら描写されず、唐突に「実は被害女性を殺したのは音楽家の妻だった」という要素が投げ込まれる。オリエント急行とは異なる結末にするためとしか思えないような唐突さで、観客にしてみればいきなり新要素を提示されたようなものだ。さらに間を置かずに「やっぱり被害女性を殺したのは復讐相手の男でした」とちゃぶ台を返される始末で、いよいよ観客は置いてきぼりという感覚が強くなる。よく言えば二転三転する驚愕の展開というやつだが、観客の気持ちがついていかないと目の前で行ったり来たりされているのと変わらない。
それでも描き方次第では納得できたかもしれない。そうならなかったのは、この映画に説得力の欠如と感情移入の阻害という二つの欠点があるからではないかと思う。
投げ捨てられる作品のテーマ
映画の説得力に疑問を覚える大きな要因の一つが、遺族らの復讐相手である蓮沼寛一が一度は逮捕されながら、処分保留で釈放となるところだ。蓮沼の家からは被害女性の血痕がついた作業着が見つかっており、起訴まで持っていけない理由がぴんと来ない。作中では、過去に蓮沼が別の事件の容疑者となった際に完全黙秘を貫いて無罪を勝ち取っていたことから、検察が及び腰になったという説明がされる。現実のニュースを見ていると状況証拠だけで殺人罪で有罪となっている事例もあるため、一般人の感覚としては違和感を覚えるが、そこはまだぎりぎり納得できる。問題は、湯川が作業着の血痕を理由にあっさりと蓮沼が女性殺害の犯人だと推理することだ。
いはく、「警察資料では殺害現場とされる公園に血痕がなかったのに、作業着に血痕がついているのはおかしい。別の場所で蓮沼が殺したのではないか」
そらそうだわな
と劇場で思った人も多いのではないだろうか。なぜ警察のだれもがその程度のことに思い至らないのかという疑問を覚えずにはいられない。せっかく作業着を証拠に起訴できないことをどうにか納得したのに、まさか作中で「いや殺害の証拠になるでしょ」と雑に覆されるとは思わなかった。しかも、これは観客の心情の問題だけでは済まない。
この記事の前半で指摘したように、本作はオリエント急行をオマージュするにあたり、「無力な法と道義心の間での葛藤」を重要なテーマとしている。その葛藤を担うのは湯川ではなく、その親友であり刑事の草薙俊平だ。草薙を演じる北村一輝さんの演技は素晴らしい。主役は湯川ではなく草薙と言っていいほどの重要な役どころを、苦悩に満ち満ちた素晴らしい表現で演じ切っている。
だからこそ、「あれほど深く思い詰めて蓮沼の容疑を立証しようとしていた人間が、なぜこの程度のことに思い至らないんだろう」という疑問が沸き上がり、北村さんの名演による感情移入を雲散霧消させてしまう。さらに湯川の推理をもとに遺族に「必ず蓮沼の容疑を証明してみせます」と誓われてしまうと、テーマである「法の無力」が「無能な警察」にすり替わってしまったような錯覚すら覚える。これが、沈黙のパレードをストレートに称賛できない人が一定数いる理由ではないだろうか。
このほかにも、感情移入を阻害する要素はいくつかある。例えば、被害女性が蓮沼に殺害されるきっかけとなった、公園での音楽家の妻との口論は印象が悪い。被害女性は当時19歳で歌手へのプレッシャーを感じていて妊娠初期という設定を考えれば仕方ないのかもしれないが、長年お世話になった音楽家夫妻を悪しざまにののしる様子はいい感じがしない。本作は被害女性を想う遺族らへの感情移入を起点にしているのに、最後にその被害者に悪い印象を与えるのは悪手ではないだろうか。人畜無害そうな顔をしていた彼氏がろくに避妊をしていなかったのも印象を悪化させている。そういえば、怖気づいて最初に自供したのも彼だった。
このように沈黙のパレードには、作品が掲げたテーマの価値を終盤に投げ捨ててしまうという構造的欠陥があるように思う。役者の演技が良かっただけに残念だ。