追悼 洪 忠憙先生を偲んで

洪 忠憙 先生

日本免震構造協会『MENSHIN』125号(2024年7月号)
日本建築構造技術者協会『structure』171号(2024年7月号)
を再編したものです。

小林正人(明治大学理工学部建築学科)

 明治大学名誉教授 洪 忠憙(ただき)先生は、2024年4月8日、満88歳にてご生涯を終えられました。先生の薫陶を受け、25年が経ちましたが、穏やかな表情を拝見しますと研究室でご一緒した日々が、まるで昨日のことのように思い出されます。建築構造の設計をモーツァルトの交響曲やアインシュタインの宇宙論にたとえる哲学的な講義も魅力的でしたが、ここでは主に先生の研究面でのご功績を振り返らせていただきます。
 先生は、1960年3月に東京大学工学部建築学科を卒業後、大学院に進学され、武藤・梅村研究室にてラーメン構造と連層耐震壁を有する高層骨組を研究されました。永らく日本建築学会の鉄筋コンクリート構造計算規準に掲載されていた逆三角形震度分布を受けるラーメン構造の標準反曲点高比の一覧表の値は、先生が計算されたものでした。さらに、『高層耐震壁の弾塑性解析に関する研究』で博士の学位を取得されました。これらの研究を通じて得られたラーメン骨組と連層耐震壁の相互作用・連成挙動に関する高度な知見が、超高層建築物の黎明期における構造デザインの原像を創ったと思われます。
 1960年代後半からは、芝浦工業大学にて勤務されたのち、鹿島建設武藤研究室と武藤構造力学研究所に所属されました。我が国初の本格的な超高層建築物である霞が関ビルディングの耐震設計や京王プラザホテルの3次元立体骨組の解析など、実務設計と研究開発の両面で顕著な実績を積まれ、これらの業績は先生の名を建築界に知らしめました。当時急速に発展したコンピュータとその利用を前提としたマトリクス変位法による構造解析法の開発は、超高層建築物の黎明期にとどまらず、現代の建築設計をも支える技術革新でありました。1970年代に入ると『建築雑誌』(木村俊彦編集委員長、日本建築学会)の編集幹事や、日本建築構造技術者協会の前身である構造家懇談会、日本建築センター等の委員としても活躍され、社会活動も本格化されました。
 そして1974年に明治大学に着任し、構造力学研究室を主宰され、2006年に退職されるまでの32年間、教育に携わられました。この間に、博士10名、修士49名、学士250名を指導されました。先生の研究テーマの流れを追うと、ラーメン力学、エネルギー原理から始まり、マトリクス構造解析、超高層建築物の構造解析・構造設計を経て、高層RC耐震壁構造の諸問題、ねじれ問題、床応答、設計用地震動、信頼性解析、そして近年では、多次元入力・多次元応答、免震・制振などの応答制御構造、さらには耐震診断・改修にまで至っていました。先生の研究テーマは多岐にわたりますが、研究のベクトルは常に設計に向かっており、その変遷は我が国の耐震研究の歴史そのものともいえます。先生は各年代の学生たちに、時代に合った最先端の建築構造学と耐震設計論を教授するだけでなく、構造設計を通じて、常に新たな課題と展望を示し続けました。
 一方、1998年からは、機械工学の研究者らと協同して、文部科学省学術フロンティア推進事業「激震動をうける建築構造物および構造物内機器装置の耐震性能の向上化に関する研究」も主導されました。明治大学生田キャンパスの研究拠点である構造物試験棟や振動実験解析棟などの大型実験施設は、先生の多大な努力なくしては実現しませんでした。
 学協会の主な活動としては、日本建築学会において1981年に『耐震構造の設計』、1989年に『免震構造設計指針』、1998年に『多次元入力地震動と構造物の応答』などを共同執筆・編纂されました。2006年の日本建築学会大会では、行事部会長として神奈川・横浜での学会大会の開催にも尽力されました。さらに、神奈川県の建築士事務所協会や建築士会などの多くの耐震判定委員会の委員長を歴任され、耐震診断・改修の普及と促進を通じて、既存建築物の耐震性能の向上に貢献されました。
 先生は、人柄がよく朗らかで、誰とでも分け隔てなく接する、教育者の鑑のような方でした。ある同僚教員は「明治大学の良心」と称えました。先生は多くを語られませんでしたが、若い頃に闘病生活を経験されたり、国籍にまつわる様々な問題に直面されたりしたことを伺いました。ご自身の経験に基づく、ひとの苦しみや困難への共感が、先生の優しさの源泉だったのではないかと私は思っています。
 洪先生から語りかけていただいた励ましの言葉に深く感謝し、心よりご冥福をお祈りいたします。最後に追悼の意を込めて、『structure No.26 (1988.4)』に掲載された「構造家教育について」の一節と2006年に行われた最終講義の結びの一節を紹介いたします。

洪 忠憙「構造家教育について」structure No.26 1988.4より

 時代に背を向けて生きて行くことはできない。が、人間の努力で時代が動くのである。若い学生達が、構造界、構造家を、どんどん目標とするような“何か”が欲しいといったら、笑われるかも知れない。教育こそ、社会の反映、社会そのものであり、熱心な学生達に、実在モデルを、または職業のイメージを提示することが、極めて重要なのである(最近、建築界の有名な人の名を知らない学生が多い)。システムも人が開発し、動かしているのであり、構造家の全人格、パーソナリティを開発、高揚して行くことも重要です。これからの設計家、技術者は専門技術分野に関しても、また社会的な問題に関しても、大いに発言、発信すべきだと思います。このうるさい社会(情報過多の世の中)には、沈黙もまた美徳と達観しても、無言は、無存在に等しい時勢です。継続的に発信する立場こそ、構造家のアイデンティティを高め、新しい組織、構造家懇談会の時代を招く筈である。

洪 忠憙 最終講義「建築骨組の設計と研究―地震応答・耐震設計―」より

 それでは、最後のところに参りました。私の好きな言葉で終わらせていただきます。これは、H. G. Wells(イギリスの文明評論家・歴史家)の『生命の科学』に出ている言葉です。
「個人の生命、そのものの意義を過大評価することは、私は近代人間の大きな迷妄でないかと思っている。多細胞生物にあって、その個々の構成細胞は、老巧とともに刻々に死に絶えるわけであるが、しかし、それは決して固体そのものの死を意味しない。同様に、珊瑚礁(polypidom)と呼ばれている生物にあって、個々の珊瑚虫(polyp)の死は決して珊瑚礁の死を意味しない。ところで同じ類推が、人類という種全体の眼に見えないpolypidomについても成り立つ。一人の人間の死は、むしろ人類というpolypidomの発展、永世、という意義での中では、単に一個のpolypの死に比せられる」
 以下は私の言いたいことになります。文中の人類という群落を、我々の家族の、地域の、または企業の、明治大学の人間集団に置き換えても類推は成り立つ。一個の珊瑚虫の死を超えて、人間集団そのものの生命は、思想は、滔々とした大河の流れにも似て生き続ける。そう考えると、すっきりとして、楽々と生きられる。私の場合は楽々とやめられる。こういうことです。

略歴

1954年3月 私立 横浜高等学校 卒業
1960年3月 東京大学工学部建築学科 卒業
1965年3月  東京大学大学院数物系研究科建築学専攻 博士課程 修了
工学博士:論文題目「高層耐震壁の弾塑性解析に関する研究」
1966年3月 芝浦工業大学建築学科 専任講師
1968年4月 鹿島建設 武藤研究室 主任研究員
1969年9月 武藤構造力学研究所 主任研究員
1973年4月 鹿島建設 武藤研究室 兼 
武藤構造力学研究所 主任研究員
1974年4月 明治大学工学部建築学科 助教授
1979年3月 明治大学工学部建築学科 教授
2006年5月 明治大学名誉教授

主な著書・訳書

1971年1月 超高層建築2(構造篇) (共著)鹿島出版会
1973年1月 地震応答解析と実例 (共著)土木学会
1978年2月 Stahl bau Atlas(ドイツ語訳:鋼構造デザイン資料集成)(共訳)鹿島出版会
1981年1月 耐震構造の設計 (共著)日本建築学会
1987年11月 建築構造物の応力解析に関する最近の発展 (共著)日本建築学会
1989年9月 免震構造設計指針 (共著)日本建築学会
1998年1月 多次元入力地震動と構造物の応答 (共著)日本建築学会
1998年12月 図解テキスト 基本建築学 (共著)彰国社
2003年7月耐震構造の設計(第3版) (共著)日本建築学会

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