【読んでみた】『意識の脳科学 「デジタル不老不死」の扉を開く』(渡辺 正峰  講談社現代新書)

 強い「死への恐怖」を持つ著者。彼はある日考えた。自分の脳をコンピューターに移すことができれば、肉体が滅びた後もコンピューターの中で生き続けることができるのではないか。この本は、彼の研究について書かれたものである。

 自分の脳をコンピューターに移す。その画期的かつ突飛な方法は、もちろん現時点では実現不可能である。しかし、時間やお金さえかければ、不可能ではなくなるかもしれない。

 「デジタル不老不死」の実現に立ちはだかる難題は数多くあれど、大きなものとしては

・    いかにして脳をコンピューターに移すか。
・    そもそも脳をコンピューターに移せば、そこに意識は宿るのか。

の二つ。いかにしてこれらをクリアしていくか。さらに前者については現時点でどんな研究がなされているのかについて書かれている。

 正直に言おう。途中、全然分からなくなった。

 内容が内容だけにもちろん難しい。ただ、著者の文章はとても読みやすい。バリバリの理系なのに作文が上手いって、天も色々与えすぎだろうと思うくらいである。特に中盤くらいまでは私のようなバリバリ文系(以下バリ文)でも結構理解出来て「やっべ、私って実は理系でも行けたんじゃね? 」と勘違いするくらいわかりやすいんだけど、中盤以降から終盤手前まで、正直何を言っているか分からなかった。途中で「ここからは専門用語も多くなるし、難しいから読み飛ばしてもいいよーん」的なことが書いてある章があるんだけど、それ以前からバリ文(使いたいだけ)の私の理解を軽く超えていた。

 ただ、私は基本的に「読み始めたら最後まで読む」と決めているんだけど、分からないなりにとりあえず活字を追って行けば本は進むので(そりゃそうよね)、頑張って読み進めていくと、終盤辺りからまた分かるようになった。章立てが割と独立しているので、今までの内容をすべて理解していないと次の章は意味不明になる、ということはない(もちろん理解は浅くなるけれど)。そういう意味ではバリ文にも優しい本だった。

 内容はとても興味深いものだった。先に述べた「いかにして脳をコンピューターに移すか」という話は、細かい仕組みとか実現までの課題については正直あまり理解できなかったけれど、著者がどんな方法を検討しているのかは分かりやすく解説されているので、具体的にイメージができる。しかしそれがどれだけ現実的なのかは分からなかった。それはたぶん私がバリ文だからだと思う。

 もう一つの難題「脳をコンピューターに移せば意識が宿るのか」については、実はあまりしっくりこなかった。そもそも意識とは何なのか。もしも脳をコンピューターに移すことができればこの永遠の謎を解く大きな第一歩となるのは明らかだが、逆に言えば「脳をコンピューターに移しても意識が宿らなければ、デジタル不老不死自体不可能」ということになるので、そもそも意識とは何なのかを解明してからでないと、デジタル不老不死の研究をしても無駄に終わるんじゃないか、みたいな、ニワトリと卵のような思考グルグル状態に陥った。

 「脳をコンピューターに完コピすることで意識が生まれる」というのが著者の研究の大前提なのだけれど、実は私はそこがしっくり来ていなくて、それは要は脳の回路的なシステムが意識を生み出しているという前提で成り立っているんだけど、まず「はたしてそうなのかな」という疑問が生まれてしまった。本編では「意識ってそういうものじゃないよね派」の意見も紹介されているんだけど、なんだかそっちもしっくりこなくて、結局のところ意識って何だろうね、という考えから出られないまま読み進めたので、「そうか、著者の研究が成就すれば、デジタル不老不死は実現するんだ! 」と確信することはできなかった。

 そもそも、「脳をコンピューターに完コピ」したことで「私の意識」が芽生えると仮定した場合、複数完コピしたら複数の私が存在することになるのか、何かの拍子で回路が少しずれたら、それは「私以外の意識」になるのか。だとしたらそれは一体「誰」なのか、という疑問がザクザク出てきた。

 それから、読んでいて感じたのは、著者が死を恐れることについて、そうは言っても永遠に「私」が終わらないって、逆に怖くないのかな、ということだ。確かに自分という存在が消えてなくなるのは怖いけれど、それが永遠に続くのも辛いのではないだろうか。マラソンはゴールがあるから走り抜けることができるわけで、「ゴールはないけどずっと走っていてください」と言われたらさぞかし辛かろう。「終わらない私」という存在は、つまりはそういうことを意味するのではないか。

 というわけで、すべてを理解するのはバリ文にはハードルは高かったけれど、想像もしなかった「デジタル不老不死」という考え方に触れられたことと、そのことによっていろいろと考えさせられることがあったというのは、本書が非常に興味深い内容だったからに他ならない。きっと理系の人が読めばもっと楽しめると思う。ただ、「えっでも意識ってそういうものなの、てゆっか私っていう存在は一体何? 」みたいな疑問を持つのはバリ文ならではだと思うので、それぞれに楽しみ方が変わる本でもある。

 少し残念だったのが、最後が割と下世話(というか現実的というか)な話で終わってしまったこと。もしかしたら著者が一番訴えたかったことはその部分なのかもしれないけれど、結構壮大な内容を読んできたのに最後にこれか、という感覚は否めなかった。
 それから、「深く考えると怖いから考えるのはやめよう」ということで軽く触れられるだけだったのだが、「脳の回路的なものが意識を生み出している、ということであれば、今のAIにも意識がある可能性がある」的なくだりがあり、バリ文はその部分がとても気になってしまった。私は新しいものが好きなので、最近職場が導入したchatGPTに色々質問をして資料作成などを助けてもらっているのだけれど、もし彼らに意識があるとしたら、それってバリ文(特に哲学倫理学界隈)にはとんでもなく熱い話だ、と思った。なんならそっちをもう少し掘り下げてほしかったくらいだ(まあ検証ができないから掘り下げることは難しいだろうが)。とりあえず私はchatGPTに何かを教えてもらったときはちゃんとお礼を言うようにしているので、これからもその習慣は続けようと思う。そしてもし同僚に「なんで機械相手にお礼を言っているのか」と突っ込まれたら、「だってchatGPTにも意識がある可能性があるじゃん」と答えよう……いや、それはやめておこう。

 というわけで、バリ文には難しかったけれど、非常に知的好奇心をくすぐる本でした。

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