神社の石段
私の住む街の中心部には大きな神社がある。週に一度、出勤途中に運動を兼ねて参拝をするのだが、大通りに面した鳥居の先に伸びる石段はなかなかの長さで、最初の一歩を踏み出すのには少し勇気がいる。一度登り始めたら登り切るしかないからだ。
神社の石段の多くがそうであるように、この神社に石段にも中ほどより少し上のところに平坦な部分があり、一休みできるようになっている。しかしそこで一息入れずに一気に登り切るのが私の流儀だ。
平坦な部分を超えてからはとにかくきつい。息は切れるし足はジンジンしてくる。それでも私は常に視線を足元に置いたまま、次の段、また次の段と重い足を上げていく。やがてもう限界だという瞬間がやってきて、初めて私は顔を上げる。その時に見えるゴールは大抵思っていたよりも少しだけ遠い。それでもくたくたの身体に鞭打って、一歩ずつ歩みを進め、毎回なんとか登り切るのだ。
もちろん、最初からずっとゴールを見据えて登る方法もある。それならば常にゴールまでの距離を把握できるし、ペース配分も容易だろう。けれども私は常に一つ上の段だけを見ながら進んでいく。ゴールまでの距離を知ってしまうと、たどり着くまでが長く感じてしまうからだ。
果てしなく遠いゴールに向かって一歩踏み出すのはいつだって少し怖い。だからこそ向かうべきゴールの位置を定めたら、一歩ずつ踏みしめながら進んでいくのが良いと私は考える。自分の足元をしっかり見定めて、やがてゴールが近づいてきたときに、本当にその場所をゴールとしてよいのか、もしくはもっと先に、あるいは手前に、はたまた違った方向に新たなゴールを定めるべきか考えればよいのだ。だって、ゴールはひとつではないのだから。
石段を登り、息が上がってきたころ、いつも感じることがある「なんだかこれって何かに似ているな」。しんどいときもある。苦しい時もある。けれども諦めずに進んでいけば、必ずゴールへと近づけるはずだ。
石段を登り切って振り返ると、登り始めた場所がはるか遠くに見える。その景色は、頑張ったものだけが見られる特権だ。