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スマホのダルい快楽漬けを程々にし、苦しい努力を中断し、幸せに生きるには?

大学生活の終わりと2種類の幸福

卒論発表を終え、大学生活は残り2ヶ月となった。
この4年間、いろいろなことを考えながら走り続けてきたが、新社会人を迎えるこの2ヶ月間を最大限に活かすために、「幸福」について改めて考えてみた。

その結果、幸福には2種類あり、私たちは常日頃の生活の中で片方の幸福を手放し、感じにくくなっているのではないかと気づいた。

谷川嘉浩の「スマホ時代の哲学」

この考えの下敷きになっているのは、谷川嘉浩の『スマホ時代の哲学』(ディスカバー社)である。谷川は、スマホによって私たちは常時接続状態にあり、孤独や孤高から逃れようとしていると指摘している。

しかし、その代償として、人生の虚しさを忘れるためにスマホなどの強い刺激に依存し、感覚をバラバラにしながら生きている。彼はこれを 「やわらかな昏睡」 と呼ぶ。


マインドフルという幸福

私はこの「柔らかな昏睡」を避けることで手に入れられる幸福を 「マインドフル」 と名付けることにした。

これを踏まえたうえで結論を述べると、幸福には2種類あり、私たちは 「結果的な幸福」 ばかりを追い求めさせられ、 「マインドフル」 を忘れがちではないか、ということを考えたい。


結果的な幸福とは何か

結果的な幸福とは、新自由主義の影響を受けやすいものである。
バートランド・ラッセルも資本主義が「知性の力だけを不当に強調した人間を生み出した」と指摘している。

例えば、年収を上げること、良い会社に就職すること、転職することは、結果的には幸福度を高めるかもしれない。しかし、そのためには数多くのハードルを越えなければならず、積極的に苦しさの中に身を投じることが求められる。

もちろん、努力の中で達成感を得ることもあるし、勉強をしてハードルを超えることに快感を見出すこともあるだろう。しかし、それは 「ハードルを超える楽しさ」 であり、行為そのものが幸せなわけではない。

マインドフルな幸福とは何か

一方で、行為そのものが楽しいこともある。

書籍 『20代に得た知見』 の中で、Fは 「今幸せかどうかを考える暇もなく集中している時が幸福である」 と説いている。これは、いわば 「結果的な幸福」とは別の種類の幸福 だ。

最近の私自身の例で言えば、

  • 映画 ドライブ・マイ・カー を観たこと

  • バルザックの 谷間の百合 を読んだこと

  • 講師バイトを再開したこと

  • 『ポケットモンスター 赤・緑』をプレイすること

が幸せだった。

これらの瞬間、私は「幸福かどうか」など考えなかった。
というより、 夢中になって行為しているため、楽しいかどうかすら感じていなかった


このように、 「考える間もなく楽しいこと」 を私は 「マインドフル」 と呼びたい。


マインドフルが感じづらくなっている現代

現代では、この 「マインドフル」 を感じづらくなっている。しかし同時に、一昔前と比べて 「マインドフルを重視する考え方」 も増えてきたように思う。

その背景には スマホの影響 があるだろう。
スマホ以前の幸福感は「結果的な幸福」に重きを置くものが多かった。しかし、スマホの普及により、常時快感に浸されることができるようになった。結果として、 「結果的な幸福」だけでなく、身体的な気持ちよさ、今ここにあるという実感を感じる「マインドフルな幸福」も重要である という認識が広がりつつある。


マインドフルと快楽的な「だるさ」の違い

ここで注意すべきは、 マインドフルと快楽的な「だるさ」 は繋がっているということだ。

例えば、最近私は ポケポケというアプリゲーム にハマっているのだがしかし、満足度は DS版ポケモン赤・緑 の方が圧倒的に上である。

ポケポケ は快楽的な「だるさ」に重きを置いた体験
赤・緑 は完全に没入するマインドフルな体験

同じポケモンというコンテンツでありながら、その 「感覚の深さ」 の違いが、 「やわらかい昏睡で自己の感覚をほどくこと」「マインドフルな没入」 の違いを生み出している。


マインドフルを突き詰める方法

マインドフルを深めるためには、 「今やっていることの比重を傾ける」 必要がある。

『仕事人生あんちょこ辞典: 50歳の誤算で見えた「ブレイクスルーの裏技45」』の裏技45」 (角田 陽一郎 (著), 加藤 昌治 (著), 甲斐荘秀生 (編集))でも、「普段やっていることを傾ける➝少し力を入れる場所をずらしてみることで、思わぬ結果が得られると述べられている。

つまり、

  • ポケポケではなく『ポケモン赤・緑』をプレイする

  • 映画を見るなら感想文を書きなぐる、どこかに発表する

  • 考えをnoteにまとめ、アウトプットする

こうした いつもやっていることを偏らせることがマインドフルな幸福へと繋がっていく。


結果的な幸福とマインドフルの関係

注意しておきたいのは、結果的な幸福とマインドフルは、完全に隔たったものではないということだ

結果的な幸福のためにやっていたことが、プレイフル(マインドフル)なものに変わることもある。逆に、プレイフルだと思って始めたことが、いつの間にか「結果的な幸福」のための活動になってしまうこともある。

具体的な例を挙げると、 「人にキャリアのアドバイスをしたり、生き方を一緒に考えること」 は、私にとって マインドフルでもあり、結果的な幸福でもある最高の行為 である。

このように、 「行為そのものが楽しい」 ことと、 「結果的に幸福をもたらす」 ことが一致する瞬間は、理想的な状態だといえる。


マインドフルな行為が結果的な幸福に変質する瞬間

しかし、すべての行為がそのように理想的な形で機能するわけではない。
谷川やラッセルも指摘しているように、 本を読むという本来マインドフルな行為が、結果的な幸福へと変質してしまうことがある。

例えば、

  • 「読書をSNSに投稿するために読む」

  • 「SNS用の文章に調整しながら読む」

このように、本を読むことが 「結果的な幸福」 や 「虚栄心」 につながってしまうケースは多い。

本来は「没頭するための読書」だったはずが、「人に見せるための読書」に変わることで、 「マインドフルな幸福」 から離れてしまうのだ。
マインドフルと結果的な幸福は完全に対立するものではなく、関係性の中で変化するものなのだ。(ちなみに僕は「SNSで発信するために、読みたかった面白くて難しい本をマインドフルに読んで、SNSに上げるために文を書かないといけないから強制的にアウトプットできるぞ!みたいな読み方をしています。2つの幸福はごちゃごちゃした相補的なものでもあるということです)



結果的な幸福とマインドフル、どちらを優先すべきか?

さて、話を戻そう。私はこの 2つの幸福(結果的な幸福とマインドフルな幸福) をどのように扱うべきだと考えているのか?

結論から言うと、このノートを読んでいるような人たちには 「マインドフルな幸福」 を積極的に勧めたい。

なぜなら、 結果的な幸福は、多くの人にとってすでに身体化されている ことが多いからだ。
ここでいう 「身体化」 とは、ミシェル・フーコーの議論を下敷きにしている。(パノプティコンを広めた人と言えばわかりやすいか)

フーコーは、 近代社会が学校や刑務所などの装置をつかい「身体を拘束すること」を通して、社会規範を内面化させる 仕組みを作り上げたと論じている。つまり、私たちは 「努力を積み重ね、成果を得ることが幸福である」 という考えを、無意識のうちに刷り込まれているのだ。

このノートを読んでいるあなたも、おそらく 「結果的な幸福を追求しなくてはならない」 という意識を持っているのではないだろうか?

少なくとも 知的好奇心があり、自己成長を志向する人であることは間違いない。
じゃないとここまで読まないし読めないと思う。


結果的な幸福の限界とマインドフルの必要性

私たちは 幸福を目指すとき、身体化された価値観に従いやすい。
つまり、 「資本主義的な価値」 の中で、幸福を 「長期的な結果」 に結びつけてしまうのだ。

  • いい大学に入る

  • いい会社に就職する

  • 資格を取る

  • スキルアップする

これらは 認知的には満足感を与える かもしれない。
しかし、それによって 実際に生活の中身が幸福になったか? と問われると、そうではない場合が多い。

結果的な幸福を追求すること自体は否定しない。
しかし、その前に 「マインドフルな幸福」を増やしていかないと、本当の意味で幸福にはなりにくい のではないか。

実際に、仕事が充実していたとしても、

「こんなに恵まれているのに、なぜか虚しさを感じる」
「結果を出しても、何か物足りない」

そんな感情に悩まされることはないだろうか。

こうした感情に直面したとき、努力を好む多くの人は

「結果が足りないからだ!」
「もっと努力しなくては!」
と考え、 無限の努力ループに陥る 可能性がある。(僕もそうである)
しかしこれは努力の方向性として間違っている。のどが渇いているのに海水を飲み続けるようなもので、ますます悪化するばかりだ。
(なのに社会はそれを是とする)

ここで巻き起こる 「なぜこんなに努力しているのに幸福を感じられないのか?」 という疑問そのものが、 「今の状況が退屈で、幸福を実感できていない」 というサインなのだと思う。

本当に必要なのは、 認知的に自分を納得させることではなく、純粋に楽しいこと(=マインドフルな活動)をすること なのだ。

マインドフルな幸福を取り入れるには?

ここまでこのノートを読んでくれたあなたにこそ、
私は 「マインドフルな活動」 をおすすめしたい。

しかし、単に「マインドフルが大事だよ」と言うだけでは、一般的な自己啓発の話と変わらない。
そこで、冒頭の話に戻りたい。

残り2ヶ月の大学生活をどう過ごすべきか?

結論として、 私自身も結果的な幸福を求めてしまう傾向がある のは否めない。
だからこそ、 「結果の幸福を追求する前に、マインドフルな深い趣味を用意する」 ことが大切だと考えている。

具体的には、

  • ディベートサークルの最後の大会に向けた練習や申し込みをする前に『ポケットモンスターハートゴールド・ソウルシルバーを買う』

  • 「自分の殻を破るために水商売のバイトをする」 という前に、まずは自分が好きな 「教える仕事」 をしっかり確保する

つまり、
「純粋に楽しめることを先に取り入れ、それを軸に結果的な幸福の努力をする」 という方法だ。


まとめ:マインドフルな幸福を意識しながら結果的な幸福を追求する

あなたにもぜひ、
「感覚を細切れにする“だるい快楽”」 ではなく、
「マインドフルな幸福」 を取り入れてほしい。

そして、結果の幸福を追い求めつつも、
深いマインドフルな幸福で自己を取り戻してほしい。

さらに理想を言えば、
結果の幸福を追求する過程も、マインドフルに楽しめるように工夫する ことができれば、
日々の充実度はより高まるだろう。
あなたの生活が幸せなものであるよう
東京の片隅というにはやや真ん中過ぎる一室から、祈っている。





それでは、良い一日を。

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