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”ファッション発達障害”は存在しない(構築主義)

ADHDという概念の広がり


 発達障害という概念はあまりに広く、曖昧な広がりを持って世間に受け入れられてきている。

発達障害という概念のズレ

照山(2023)は長期にわたる疫学的な調査がないまま広まったことで、発達障害を持つ人が人口の中にどれぐらいいて、その人たちが長い目で見てどのような生き辛さを抱えて生きていくことになるのかについてはっきりとしたデータがないと指摘する。

そのような中診断や支援制度の拡充がなされたために、

㈠法的・行政上の定義
㈡医学的な定義
㈢社会に広く流通している理解の層

が少しずつずれており、正確な理解を困難なものにしている。


歴史的、国際的に見た発達障害概念のズレ

また発達障害という現在の様態は、時間軸的に見ても「広汎性発達障害」「軽度発達障害」「脳微細障害」等少しずつずれながら形成されてきた概念である。
国際的な受け止められ方にもずれがある。例えば現在のASD、ADHDを分けないで「発達障害」として紹介する概念が日本国内で認知されたのは2005年から2012年頃にかけてメディアを通して喧伝されたことによるものである。

しかしながら例えばアメリカではASDとLD、ADHDはそれぞれ支援の根拠となる法的枠組みが異なっており別個のものとして捉えられている。アメリカには「development disabilities」(直訳では発達障害)という概念はあるが成人に達する前に出現する発達の遅れの総称で脳性麻痺なども含んでおり日本における発達障害とは意味が異なる。

 このように発達障害という概念はDSMなどによる国際的なスタンダードは持ちながらもその位置づけは国、地域、個人による捉え方の差異が大きい。日本では生き辛さの要因に発達障害を求める(要出典)動きもあり、コンプレックス、メンタルヘルス産業に紐づいた民間の簡易診断も氾濫している。診断を受けていない当事者を「ファッション発達障害」と揶揄する逆の動きもあるなど(要出典)その広がりは捉えきれるものではなくなっている。



なぜズレるのか?

構築主義と当事者ニーズ

 これは発達障害という現象が本人の体に由来する本質主義的なものだと考えると奇妙だが、社会が作る構築主義的なものだとするとごく自然である。実際にADHD,ASDが第三次産業の隆盛に伴って出てきた(田中先生の本かどっかに根拠があったはず)概念であることがその根拠と言える。第二次産業や単純労働が多かった時代ADHDはともかくASDは存在しなかったのである。
 そして、発達障害は当事者のニーズによってのみ申告され取り扱われるべきである。簡単に言えば「発達障害である」という語りからは発達障害かどうかは読み取れないが、何らかの障害、困難を抱えていることは明白だからだ。

困難の表出が閾値下になったとき「障害」でなくなる現象が発達障害ならば他の権威による診断を抱えているか抱えていないかは大きな問題ではない。

発達障害という語りをもった当事者のニーズこそ、発達障害であるか否かを判断する一番大切なものなのだ。


ファッション発達障害は存在しない

 もちろん、医学的な担保は必要であるし当事者のニーズのみで判断されるべきではないが、覚えていてほしいのは発達障害は単なる「枠組み」に過ぎないということだ

医師による正式な診断も「枠組み」の一つにすぎない。枠組みは考えを補助してくれるが、枠組みこそが当事者の苦しみそのものを表すのではないのだ。あなたの苦しみはあなたにある。


枠組みの実践的使用へ

 であるなら、困難をかかえたものは単なる枠組みとしてそれを積極的に使っていっていいのである。 
 筆者は障害受容ができている部類の障害当事者なのでたまに
「私なんかが障害といってよいのか」と迷っている人から相談を受けることがある。

「めちゃくちゃOKですよ」とお伝えしている。
それで生きやすくなるなら、個人としては使っていいのである。
(社会への影響はここでは措く)

だから、
だれかの診断ではなく、あなたこそが大切にされるべきものなのですよ、と。

生き辛い世の中を何とかやっていきましょう。





























それでは良い一日を。





参考文献

照山絢子『発達障害を人類学してみた』診断と治療社、2023年
DSM-5(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)




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