「ン」ポゥ!!!
動物園が近くにあるから、たばこの煙を外に出そうと思って窓を少し開いただけで、すごく悪臭がする。その悪臭が俺の愛する本だの、服だの、布の使われた家具だの、いっぱいに染み込み込むんで、それらを使うたびに動物臭くてたまらない。
たしかに不動産屋と内見に来たときから動物園の存在には気付いていたし、それを承知で契約をした。でも、内見の時に限って動物のクサいニオイは感じられなかったし(手っ取り早く安い家を見つけたいという思いから、臭いに関する気遣いにまで頭が回らなかったのかもしれない。もしくは、動物園は悪臭の放出をスイッチ一つで管理することが出来るのかもしれない。それを内見の時オフにしたのだ。勿論、内見をしている俺に悪臭の存在を気付かれまいという明確な意図を持って。)、別段不動産屋が臭いについて説明したり、そのような事を知りながらそれを隠す特有の表情や仕草のようなものも無かった。よって、ここに不動産屋と俺は引き分けな訳で、責任の全ては動物園(というよりその園の囲い込んでいる忌まわしき獣等のせいか。)に集約し、悪は定まった。さあ、どのように対処しようか。
「動物園」を消すにはいろいろな方法がある。焼く(液体燃料などを全体的に撒き散らして火を付ける。)、損壊(重機や銃火器、鈍器などを使って片っ端から破壊する。)、強制撤退(園長や市の職員を脅迫して移動、もしくは廃業させる。)など、いくらでも思いつく。だからこそ、この考えでは駄目だ。動物園を消そうだなんて。それは懸垂式のモノレールのように、決められた線路をぶら下がり、ゆったり走る馬鹿の一つ覚え。小っさい檻の中に一つだけある木で、一日の大半の時間を懸垂運動して過ごすオランウータンみたい。阿呆。
俳句や短歌の類いは文字数や語彙に規則がある。だからこそ、そこに芸術性の放出が在るわけで。要するに俺は無定型の詩なんぞを書くオランウータンの阿呆じゃないため、定型を求める。そして放出。
だから、大きく「動物園」ではなく、もっと小さく「動物」に視点向けることにする。動物園にいる「動物」を消す。動物を消せば部屋に悪臭が入らないという事は明白で、それはどんなに馬鹿な小学生でも分かる簡単な式だ。デカい「動物園」じゃなく「動物」に焦点を移すことは定型だ。この世に動物の殺しの方法は数少ない。そのどれをどの動物に適用するか。その放出、芸術のスパークが楽しみだ。
うるまを吸い吸って吸ったから最後の一本。今朝買ったばかりなんだけどなあ。いつもたばこが切れてから思うのは、一回に数個購入しときゃいい、って。たばこが切れるたんびに商店街のたばこ屋まで行って一パック買う。たばこが切れてから一パックしか買わなかった事に後悔して、また一パック買う。俺も馬鹿だ。オランウータンです。思うに俺はたばこが好きなのでは無く、家とたばこ屋の往復が好きなのかもしれない。
最後の一本のうるまに火を着けた。火の付いたたばこを銜えているだけじゃなんだから、テレビを点けた。しょうもないニュースがやっていた。吐き気のするようなピンクを基調としたセットに横長のデスク。男性と女性のアナウンサーとコメンテーターのジジイの三人がそこに座っている。デスクの天板から上をアップで映しており、三人は上半身だけが見えている絵面だ。原稿を繰ったりカメラを見つめたり口を動かしたり。三者三様のやり方でニュース番組を執り行っているが、こいつらの隠された下半身が気になって仕方が無い。三人とも下半身に何も身に着けていないかもしれない。もしくは下半身が馬で、三人はケンタウロスなのかもしれない。そもそも下半身が無いのかもしれない。どれだけ想像しても、それらには喝采を送りたくなる程の精彩しか無い。唯一期待を裏切るのは、着衣の下半身がただ凡庸に存在することだけで、もしそうだったら...
最後のうるまが大分短くなった時、子猿を背に乗せたカピバラのVTRが明けた。コメンテーターが何かを言い、アナウンサーが愛想笑いをした後、カメラがゆっくりとズームアウトしていった。ゆっくりと画角が広がっていく。
秘匿された下半身の補足を期待して眺めた。三人が小さくなり全身をカメラが捉えた。しかし、デスクの前面には三人の下半身を隠すようにピンク色の板が取り付けられており、そこにはドロドロとした緑色で大きく「ニュースでBANG!」と書かれていた。
「アチイ!」
うるまを必要以上に吸いきってしまい、たばこを挟んだ指を焦がしてしまった。台所に走り指に水を浸けたが、患部がゆっくりと膨らみ、小さい水ぶくれが出来た。その時、三人の下半身を隠した緑字の「ニュースでBANG!」は、緑色の絵の具では無く、NASAの研究所から脱走したエイリアンの血を使っていると確信した。
うるまを買いに行くために家を出た。商店街までの坂道を下りながら、無意識に指の水ぶくれを何回も触ってしまう。エイリアンは動物殺戮の天才だ。家畜の血液を全て抜き取ってしまうことなんかエイリアンには容易い事で、他にも、人間を含めた動物に寄生してその身体を乗っ取るなんてことも出来る。
商店街のアーケードに入った瞬間、焼けた肉とスパイスの香ばしい匂いが鼻に届いた。その時自分の空腹状態に気付きどうしようもなくなり、匂いの元を探した。少し先の方で中東人がケバブの屋台を出しているのが見えた。確実に匂いの元はそこで、頭の中ではスパイシーな肉の匂いとケバブの幻影が完全にリンクし、それを食べずにはいられない状態となった。夕方は商店街の一番混む時間で、今日も例に漏れずアーケードは人でごった返していた。
主婦や爺さん婆さんの人混みをかき分け、ケバブ屋を目指す。大勢の人を押し分け、やっと辿り着いたかに思えたが、そこはすでにケバブ屋から大分先の帽子屋であった。人混みを夢中で進んでいる最中はこの場所がケバブ屋の位置のような感覚であったが、いざ辿り着いてみると大分誤差がある。もう一度逆行して、過ぎてしまったケバブ屋を目指した。スーパー帰りの主婦の抱えた大きなレジ袋から突き出るネギが目に刺さりそうになったりジジイの突く杖に脚を踏まれたりしながら、なんとかケバブ屋まで辿り着いた。と思ったが、またしてもケバブ屋を通り過ぎており、先程通ったアーケードの入り口であった。それに先程よりさらに人口密度が増したように思える。来たときには目視できたケバブ屋と中東人も、もはやどこにあるのか分からないほど人波に飲まれていた。
石油が湧くように、商店街に突如として増える人。その増える人口に呼応するように、俺の空腹感も一層強まる。もはやアーケードに街の全ての人間が集まったのかとさえ思う。もしかしたら俺が知らないだけで、マイケル・ジャクソンの営業があるのかもしれない。それでも空腹感には耐えきれず、また人混みを分け入った。今度ばかりは濁流のような人間の流れに抗おうと、暴力も辞さなかった。ジジイやババアの脚(特に膝を重点的に)を蹴りつけて動けないようにし、主婦やサラリーマンの顎に鉄拳をお見舞いして脳震盪でダウン。赤ん坊は適当にぶん投げ、学生には勉学に励めと叱責する。そうこうしてようやく人波を抜けケバブ屋に辿り着いたと思ったが、そこはケバブ屋の場所から100メートルは離れている商店街の最奥のタバコ屋であった。空いた腹は極限状態であったが、たばこ屋は当初の目的地であるため、苛立ちを押さえて店に入った。
昭和に時を置いてきたかのように古くさい店内、いつものようにカウンターに店主の姿は無い。この店で一番目新しい物は10年前の日付が書かれたプロレスの巡業告知ポスターだろうか。深緑の壁に貼られたそれは、度重なる日光によって漂白されたように色褪せている。
カウンターに置かれたベルを三度鳴らした。頭の中で数を数える。
『1,2,3,4,5…』
いつもと同じように三十まで数えたところで奥の紐暖簾を両手で払いながらゆっくりとジジイが出てきた。おそらく開店当時に着けられたであろうその暖簾は、老犬が誤嚥して吐き出したきしめんのように所々がちぎれ、薄汚い。たぶん臭いも相当なものだろう。
ジジイは俺の顔も見ずにうるまを一つ出した。相応の金を払い店を出ようとしたが、空腹の苛立ちが和らぐんじゃ無いかと思ってジジイに話しかけてみた。
「ケバブ売ってんだな、中東人が。そこの、商店街の真ん中の方で」
話しかけられると思っていなかった事がジジイの驚いた表情から分かる。ジジイは口をモゴモゴさせただけで特に返事も無かったから話題を変えた。
「いやぁ、今日はやけに人が多いね。マイケル・ジャクソンの催し物でもあるのかい?だとしたら商工会の奴らがんばったなぁ。え?」
それでもまだ、ジジイは何も言わない。
「え?なんだいその面は?MJよりSKが良かったって面だなぁ。SKだよSK。サブロー・キタジマ。サブちゃん好きそうな面だねぇ」
どうせジジイは北島三郎が好きだろうから、サブちゃんの名前を出してみた。
するとジジイは、まだモゴモゴはしていたが、モゴモゴしながらも言葉を発した。モゴモゴさせていた口から言葉が紡ぎ出されるその過程が機械的なほどシームレスで、昭和の空気を閉じ込めた店内に場違いなBehaviorであった。それは対極の美であり裏腹の芸術。深海に沈む太陽。月の裏の遊園地。荒廃した高原に停められた一台のドゥカティ・パニガーレV4。
「…バブ、ケバブなら、家内が作ったのがあるよ」
ジジイの芸術に陶然として、発した言葉を理解するのに数秒かかった。
「え?ケバブを?ババアが?作った?」
ジジイはゆっくりと頷いた。
「おお!くれよそれ。超腹減ってたんだよナイス!」
先程までの遅延した動作が全て芝居であったかのように、ジジイは機敏な動作と大声でババアを呼んだ。
「おい!婆さんや!ケバブ持ってきてケバブ!昨日の残りタッパーに詰めて冷蔵庫に入れてたでしょ!」
はーい、というか細い返答の三十秒後、タッパーを両手にもったババアが臭そうな紐暖簾から現れた。
「この子がな、どうしてもお前の作ったケバブが食べたいんだとよ」
確かにケバブはどうしても食べたいが、どうしてもお前の作ったケバブを食べたい訳では無い。
「あら、まあ、そうなの。いまフォーク持ってくるわね」
ババアはカウンターにタッパーを置いた後、フォークを取りに奥へ引っ込んだ。
「どら、うまそうじゃろ。蓋取ってみい」
言われたとおり蓋を開けると、そこには確かにケバブが入っていた。しかしスパイスのまぶされた肉塊は緑色の液体を出し、その染み出た緑液に肉塊は浸かっており、明らかに普通のケバブでは無いことが明白であった。羊の肉ではないその肉塊は、NASAの研究所から脱出したエイリアンのものだと誰もが思うだろう。タッパーから目を上げると、ジジイは意味ありげな笑みを浮かべていた。紐暖簾をくぐり戻ってきたババアは、フォークでは無く日本刀を持っていた。勿論、こいつも微笑を浮かべていた。
エイリアンとケバブとタッパーウェア。ジジイとババア。前門の虎と後門の狼。しかし、企みは俺にはバレている。老人は俺を手中に収めたと思い込んでいるようだが、その逆だ。俺という巨大な円盤が、牧草を食むジジイとババアの上空にいる。
「これはエイリアンの肉では無い。唯の牛肉を緑の着色料に浸し、それを焼いただけだ。この町には愚かな人間しかいないから、他の奴等なら騙せるだろう。しかし、相手はこの俺だぜ?相手を間違ったな!このオランウータンの老害共め!」
俺を欺くことが出来ず、怒り狂ったジジイとババアが俺を襲ってきた。しかし、ババアの一太刀をひらりと躱し、刀を取り上げた。そして、雷鳥のような素早さでジジイとババアの首を鮮やかに刎ね飛ばした。
地面に転がる生首が二つ。またしても芸術のアナロジーを見つけた。だがそれ以上に、両の手にはっきりと残る殺人の愉楽で脳味噌はいっぱいになり、耳から緑液が滴り落ちた。
言語を有するということが、他の生物と人間を大きく隔てる要因である。種の繁栄や文化の発展は言語という特殊な能力のおかげだ。でもただそれだけで、人間はイルカの様に華麗に海を泳ぐことはできないし、カメレオンの様に皮膚の色を自在に変えることはできない。
人間が作り出したその言語に「動物」という言葉がある。そして動物は一般的にこのように定義される。
既成の有機物を栄養として摂取する。主に移動生活をする。消化・排出・循環などの器官の分化が見られる。細胞には細胞壁がない。
動物園にいるキリンや象やライオン。そしてオランウータン。そして人間。定義に当て嵌めればどれも動物である。しかし人間は人間を動物に分類することを嫌い、あたかも他の種より優れているかのように振る舞う。消えた方が良いのはどちらだろうか?答えはどんなに馬鹿な小学生でも分かる簡単な式のように明白だ。
たばこ屋を出た俺は商店街の群衆を見つめた。溶けたアイスに群がる路上の蟻のように高密度で蠢く様が不快だ。俺はスマトラ島の樹上で落陽を受け赫々たる光を放つオランウータンの咆哮のように雄々しい叫びと供に血塗れの日本刀を振り上げ、目の前の不快の衆に吶喊した。
視界に入った者を次から次へと切り倒し、気がつくと商店街には静寂が流れていた。商店街には死体が溢れ、流れ出た血がアーケードに大河を作った。不快を断ち切ったことに満足して帰ろうとしたその時、視界の端に動く影があり刀を構えた。
「そこにいるのは誰だ」
円柱の影に隠れた何者かに脅しを掛けた。すると両手を挙げた男がゆっくりと横に出てきた。白のスーツとハットとネクタイと靴、それに青いシャツと青い腕章。そう、スムースクリミナルの衣装を纏ったマイケル・ジャクソンである。そうか、やはりマイケル・ジャクソンの営業であったか。死んじまったジジイは北島三郎が良いとかなんとか言ってた様な。予想が的中したことと、米国人の目の前で日本刀を構えるという戯画化された大和魂が自然と俺を脱力させ、頬を緩めた。
「た、助けてください。金は、たんまり有りますから…」
日本語を喋りやがった。しかも大変流暢だ。違和感を抱き周りを見ると、右手の八百屋の横に四畳ほどの大きさの簡易ステージがあり、その上方に「前川ジャクソン オンステージ!」と馬鹿げたフォントの幕が掛かっていた。それでもう一度男に目を向けると、背は俺より低く少し小太りで猫背であり、たしかにマイケル・ジャクソンでは無い。俺は悲しくなって涙が出た。
「なあ、オイ、お前、前川。前川ジャクソン!
俺はなあ、マイケル・ジャクソンの大ファンなんだよ。
物陰から出てきた時お前、本物のマイコーかと思ったじゃねえかよ。
なあ、悲しいよ、悲しいぜ俺は。殺せ。殺せ!!!」
俺は前川ジャクソンに日本刀を渡した。
「ひいいいいい、ンポゥ!!!」
しかし恐怖した前川は刀を手にしたまま走り去ってしまった。マイケル・ジャクソンの声帯模写を置いて。
「おい、どこ行く、前川!殺せ!俺を殺してくれ---!!!」
前川も行ってしまって、特にやることが無くなって、家に帰った。
ポケットからうるまを取り出した。そう言えば、たばこ屋のジジイとババア殺したから、もうあの店でたばこは買えないのか。
たばこに火を着け、窓を開けた。そして深く煙を吸い込んで吐き出した。
動物の香りがした。この部屋に動物園は不可欠だ。
三日後、動物園に行ってみた。初めて入る園内は想像より綺麗で、居心地の良い場所だった。陸棲生物だけだと思っていたけど、イルカやアザラシなんかの海棲生物もいて楽しかった。一日中かけて園内の全てを周り、全ての動物を見た。お気に入りはやっぱりオランウータンかな。疲れたからその日は家に帰ってすぐ寝た。
次の日、起きてすぐ歯を磨いた。歯ブラシを銜えているだけじゃなんだから、テレビを点けた。ニュースで商店街の大量殺人を報道してた。おどろおどろしいフォントで大きく「史上最悪のシリアルキラー」と書かれた下に前川ジャクソンの顔がデカデカと出ててめっちゃ笑った。