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アフガニスタンと某県知事の騒動から考えた、この世界の「真実」

 最近、アフガニスタンに取材に行った方の動画を観ている。

 その動画のなかのアフガニスタンの人々は、来客を盛大にもてなし、篤い信仰心をもち、男性たちは妻たちが女王であるかのように傅く(なかにはそうでないのもいるかもだけど……)

 アフガニスタンではほとんど女性の姿は街角にない。食事をする場所も別ならば、客人に会うこともほぼなく、自宅から出ることも滅多にないのだそうで。
 外に出て仕事をし、お金を稼ぐのは男性たちの役割なのだそうだ。

 これに関しては、人によって評価は分かれると思う。差別的だとするか、否か。

 また、あるときにこんな話を聞いた。

 イスラ厶教の厳しい戒律。
 男女は徹底的に分かたれ、男性が女性をじっと見つめることですら戒律違反となる。
 男女とも肌の露出は許されず、女性はブルカを着用している人たちもいる。

 それには理由があるのだそうだ。
 イスラム圏の女性たちはみな美しい。
 けれど気候は厳しく、生活は豊かではない。
 だから、姿を隠す。肌を覆う。髪を隠す。顔を見せない。
 全ては女性たちを守り「子孫が増えすぎないようにするため」の戒律なのだそうで。
 これで、女性たちを「何から」守っているのかは、お察しいただきたい。

 資本主義と民主主義、建前上の政教分離の世界で生きている、島国「日本」の私からみれば、これらを知る前の彼らは「タリバン」「イスラム国」の印象しかなかった。
 強烈な女性蔑視、アメリカを筆頭とした欧米諸国へのヘイトの感情。
 報道で垂れ流され続ける「切り取られた」イスラム諸国の姿。
 それが全てと、私もいつの間にかそう思っていた。 


          ✵✵✵


 話は変わる。
 私の夫は、先日、某県でパワハラ疑惑のために揉めに揉めて、挙句に百条委員会で証人喚問をするまで至った某知事を非常に強く支持している。

 方や私はあまり支持してはいない。
 支持するに足る材料がないからね(私にとっては、あくまでも)

 パワハラは「ない」ではなく「あったとする確証がない」
 港湾利権にメスを入れたのが功績である、とはあちこちで聞くんだけど、公認会計士は監査に知事の関与はなかったという。
 また、この人物を支援する人間の怪しさ(勝手に支援してるんだと夫は言うけれど……)
 それから、この方自身の政策や公約の達成率と着手率が非常にごちゃごちゃしていて分かりにくく、行きたい方向も進捗もよく分からないこと。

 以上の理由で私は支持しない。

 ただ、強く支持している夫にとっては「パワハラを認定するに足る証拠がなかった」だけで大勝利であり、私のような不支持者には「ざまあみろ、どうして支持しないんだ!」と言うべき案件であるらしい。

 いやいや。
 支持するには材料が不足だと言っているのだ。
 反対勢力が正しいとは一言も言っていない。

 ああ、そうか。
 この男もまた、マスコミによって切り取られたこの「某県知事」の姿に踊らされているのだ。
 マスコミが悪い部分ばかりを切り取る。ネットがその逆を伝える。
 ああ、また「マスゴミ」に騙された!
 脊髄反射の怒りで、たちまち中庸は失われる。
 古い体制が悪い、オールドメディアが悪い、自分たちは被害者だ、旧体制は闇だ!

 ……なあ、ちょっとは落ち着けよ。


         ✵✵✵


 全ての事物には、光と闇が内包されている。
 光だけでできたものは、この地上には存在しない。逆もまた然りだ。

 絶対的な善がないように、絶対的な悪もまたない。

 アフガニスタンの人々を見ているとよく分かる。
 欧米諸国のルールがよく行き渡った(半ば植民地のような)私たちの国から見ると、女性のブルカや徹底的に男女を分かつ戒律などは女性蔑視で差別的であるという見方に陥りがちだ。
 ……だけど、本当にそうだろうか?

 イスラム教の戒律には「女性を大切にせよ」との一文もあるという。
 この厳しい気候の土地で、女性を守ること。
 この場所は大陸の真ん中で、常に侵略者や外敵の脅威に晒されていること。
 そこに配慮した結果であるといわれれば、確かにそうなのだ。
 政教分離を否とする考え方もまたそうだ。
 確かに、国民一丸とならなければ、この外敵をも含めた厳しい環境には対抗できないし、厳しい戒律がなければ、この国民性ではあっという間に風紀は乱れるだろう。

 ただし、タリバンが主張する「女性に教育は不要である」とするなどの、その根拠が彼らにとってたとえ正当であったとしても、明らかに行き過ぎているもの、そういうものもあるわけで。 

 だから、先に書いた内容は、決してタリバン支持ではないし、イスラム支持でもない。
 ただ「アフガニスタンは『闇』ではない」ということ。
 この情勢においては、特に日本はアメリカの半ば舎弟のようなザマで、だからアフガニスタンは悪者にされがちだ。
 だけど、その見方は一方的にすぎるし、はっきり言って間違っている。


 某県知事についても同じことが言える。
 今や完全に評価は二分され、ヒーローの如く祀り上げる人たちと、そうではない人たちに分かれての新しい分断が始まっている。

 落ち着いて、彼の実績を見て評価してほしい。
 この熱狂的な支持者たちのなかの何割が『彼を悲劇のヒーローではなく、あくまでも一施政者として』評価できているだろうか?

 施政者にはドラマはいらない。
 悲劇のヒーローである必要などない。
 実行力、実務能力、提案力、求心力。
 ちゃんと必要な能力が備わっているなら、ドラマなど必要ないでしょ?

 この件に関しては、支持者はもう少し冷静になるべきだ(まあ、強硬な不支持者にもそれは言えるのだけれど)

 私たちは、彼の職場である県庁のなかで、議会のなかで、何が行われてどういった空気であったのかを、感覚として感じることはできない。

 そう、アフガニスタンと同じなんだよ。

 光とジャッジするにも、闇とジャッジするにも、圧倒的に材料が足りなさすぎる。
 それなのに、私たちは『何かフィルター(マスコミ、ネット)を通して得た情報』を絶対的真実のように何か勘違いして、それが全てになりすぎてしまっている。

 私たちは何も知らないのだ。
 アフガニスタンのことも、某県知事のことも、私たちが「分かった、○○なんだ!」と思っているそれは、解答ではなく「感情」だ。 

 アフガニスタンは危ない場所だ。
 某県知事はヒーローだ。

 そう、感想にすぎない。
 感想と事実がごちゃごちゃになっている。

 だから真実が見えない。


          ✵✵✵


 いや、でも分かっていることもある。

 それは、さっきも書いた「私たちは何も分かっていない」ということ。
 それから「私たちは信じたいものを信じてしまう」ということ。

 心のなかまでは誰も支配はできない。
 だから、それが闇だと信じたい人には、それが真実になってしまう。
 それが光でヒーローならば、それはその人にとっての真実なのだ。

 だから、ジャッジして自らと違うものを斬り捨てていくようなことを続けていくと、その人にとっての世界は狭く、広がりのない苦しいものになっていく。
 当然だ。
 「違うもの」とは手を取ることができないのだから、新しい風なんか入りゃしない。
 結果として成長もないし、進化もない。

 今、この世界は過渡期にある。

 変わりゆく世界のなかで、私たちの目は本当にちゃんと開いているだろうか?
 焦点はなにに結ばれているだろうか?

 分断はきっとこれから更に進んでいく。
 いや「みんなに共通の真実」それ自身が幻想だったのかもしれないよね。
 幻想はやがて弾けて消える。
 あとに残るのは「あなたの真実」だけ。

 私にも「信じたいもの」はあるけれど。
 私はそれと手を取り、これからの世界を探索していこうと思う。
 「信じる」は「崇拝する」ではないのだ。
 「共に行く」ことであり、「依存する」ことではないのだ。


 それが今は私の真実なのだろう。
 それでいい。

 この正気を失いつつある世界のなかで、毅然と立っている私であるために。






 


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