徳は才の主、才は徳の奴
先日、運動不足を解消するために、市立図書館まで散歩に出かけました。お目当ての本があったわけでは無かったのですが、ぶらぶらと蔵書を眺めていると、『菜根譚』(守屋洋)を見つけました。以前から、読んでみたい本だったので、早速借りました。
『菜根譚』を知ったのは、ある一文をネットかどこかで知ったのがきっかけでした。その一文とは、
「徳は才の主、才は徳の奴」
でした。原典に遡ってみると、全文は、
「徳は才の主、才は徳の奴なり。才ありて徳なきは、家に主なくして、奴、事を用うるが如し。幾何ぞ魍魎にして猖狂せざらん。」
(人格が主人で、才能は召使いにすぎない。才能には恵まれても人格が伴わないのは、主人のいない家で召使いが我がもの顔に振る舞っているようなものだ。これではせっかくの家庭も妖怪変化の巣窟と化してしまう。)
著者の評:「徳と才を兼ね備えているのが望ましいのだが、二つを比べると、明らかに徳が上位にくるのだという。」
『菜根譚』守屋洋(前集・第139)
私は同志社大の出身ですが、創立者・新島襄の遺した言葉、「智徳併行」について考えてきました。上述の守屋さんの評を「智徳併行」に当てはめて考えると、
「徳と智識を兼ね備えているのが望ましいのだが、二つを比べると、明らかに徳が上位に来る」ということでしょうか。
江戸時代初期の陽明学者である中江藤樹も、同様のテーマについて書いています。内村鑑三は『代表的日本人』のなかで、藤樹の思想を次のように紹介しています。
「藤樹の教えのなかで、とくに変わった教えが一つあります。藤樹は、弟子の徳と人格とを非常に重んじ、学問と知識とをいちじるしく軽んじました。真の学者とはどういう人か、藤樹の考えはこうです。
“学者”とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が、学者になるのは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人である。無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である。」(『代表的日本人』p122)
この藤樹の思想は、『翁問答』のなかに現れます。藤樹が考えるには、徳は「本」であり、学識は「末」なのです。そして、「本末兼備」が理想だが、兼備できない場合は、「末を捨てて本を第一に努めるのがよろしい」と述べています。(この点については、私のNOTEブログ『教育の「本末」』をご覧ください)
昨今の教育界を見ると、どうも「学者輩多くは其の本を探らず其の末に趨り、其の基を固ふせず徒に速成を期し」(新島襄)ている感が拭えないと思います。
「智徳併行」をアイデンティティとしている同志社大ですら、その傾向が強いのですから、他の大学においては推して知るべしです。