能力の代償

 先日、エアコンから少し水漏れがあったので、ダイキンの修理屋さんに来てもらいました。おそらくドレンホースの目詰まりだと思ったので、ホームセンターへ行ってドレンホースクリーナーを買って自分で修理しようかと思ったのですが、瓦屋根に登るのが怖くて、思い直して、修理屋さんに依頼しました。
 来てくれた修理屋さんは、私より少し年下かと思われる男性でした。車で到着するなり、何事も手際よく、エアコンのカバーを外して、ドレンパンの様子を見たり、ドレンチェックをしたりして、水漏れの原因を調べていました。そして、室外機の様子が見たいと、ベランダから飄々と瓦屋根を歩いて行くではありませんか。
 故障の原因はやはりドレンホースの目詰まりでした。私はその修理屋さんの手際や度胸を見ていて、自分が恥ずかしくなりました。車も運転できない、屋根にも登れない、どうしてこんな臆病で度胸なしに生まれたのでしょうか。
 修理屋さんが帰ったあと、黙然と考え込んでしまいました。
 「臆病」「度胸なし」という言葉が頭のなかでぐるぐると巡りました。そこで、夏目漱石の文章を思い出したのです。

「こう云う代助は無論臆病である。又臆病で耻ずかしいという気は心から起こらない。ある場合いは臆病を以て自任したくなる位である。」『それから』

「元来あの女なんだろう。あんな女が世の中にいるものだろうか。女というものは、ああおちついて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するにいけるところまでいってみなかったら、見当がつかない。思いきってもう少しいってみるとよかった。けれども恐ろしい。別れぎわにあなたは度胸のないかただと言われた時には、びっくりした。二十三年の弱点が一度に露見したような心持ちであった。親でもああうまく言いあてるものではない。」『三四郎』

「あなたに分からなければ、私が云って聴かせて上げます。あなたがなぜ行きたがらないか、私にはちゃんと分かってるんです。あなたは臆病なんです。清子さんの前へ出られないんです。」『明暗』

夏目漱石の主人公たちは皆、漱石自身を模写したものだと思います。ある作品では、「臆病」であることを恥じ、またある作品では「臆病」を自任している。そもそも、「臆病」とは、どういう個人の特性に由来するものでしょうか。
 私の意見では、社会的刺激に対して、神経が「鋭敏」すぎることに由来するように思われます。現に、「臆病」を自慢しているかのような『それから』のなかには、以下のような文章が現れます。

「自分の神経は、自分に特有なる細緻な思索力と、鋭敏な感応性に対して払う租税である。高尚な教育の彼岸に起る反響の苦痛である。天爵的に貴族となった報に受ける不文の刑罰である。これ等の犠牲に甘んずればこそ、自分は今の自分に為れた。否、ある時はこれ等の犠牲そのものに、人生の意義をまともに認める場合さえある。」『それから』

人間のひとつの長所はかならず、裏面に短所を持っているものだと考えます。状況次第で、長所としても現れ、短所としても現れる。すなわち、もし人が突出した個性を持っているとしたら、かならずその代償を払わされるということです。

 ここまで考えて、エアコンの修理屋さんの件を思い直しました。修理屋さんにしかできない技術があるように、私にも私にしかできない能力がきっとあるのだ、と。今は、裏目に出ている個性もやがてポジティブな特性として現れる日があるはずだ、と。このように思い直して、心の安定を取り戻しました。

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