共感に感じる違和感の正体とは?アドラー心理学の本質から紐解く!BUMP OF CHICKEN「ひとりごと」

前回は、
・ネガティブ・ケイパビリティ
・BUMP OF CHICKEN『メーデー』
から共感について考えていきました。

更なる理解を求めて、治療家としての師匠に相談を持ちかけたところ
ハウツー本ではなくて、基礎的となる心理学を学ぶ方が合っているのではないかというアドバイスをいただいた。

そして大師匠より、
『性格は変えられる アドラー心理学を語る』
野田俊作著
を勧められて今に至る。

前置きしておくと、
学び始めて数日の私がこの本を解説する気は毛頭ない。(というよりそんな恐れ多いことはできない。)

そもそもなぜ私が共感についてここまで深く考えるのかといえば、
鍼灸師として関わらせていただく多くの方は痛みや不安を抱えている。
その方々の精神を考えた時、
精神は安定しているか?していないか?
の2択であれば、していない(不安定)であるのは間違いがない。
(もちろん未病と同じでグラデーションがある)
だからこそ、共感という安心感が必要である。

しかし、問題が一つあって
思ってもないこと(分からないこと)を共感することは、表面的にはできても芯がない。
つまり、私の中で矛盾や葛藤が起こるのです。

さて、本書の中には

アドラー心理学は、内的な葛藤は認めないけれど、個人と他人とか社会とかとの間の対人的な葛藤は認めます。

『性格は変えられる アドラー心理学を語る』野田 俊作著

という一文があります。
そして、

もし、本当に深く根づいた倫理観があるなら、それは自然に行動に表われて、不道徳な行為がそもそも起こらないはずだ。そのときには、何も矛盾は感じられないはずだ。こうして、人間の内側には、いかなる矛盾も対立もないんです。

『性格は変えられる アドラー心理学を語る』野田 俊作著

と結論づけられている。

私の内的な葛藤に感じていることは、
その直面している事象は自身のライフスタイルの間に生まれている。
と言えるだろう。
つまり、どれだけ私の中に原因を探ろうとしてもそこに答えはないのだ。

ではその葛藤はどこにあるのか?
アドラー心理学から考えると、私と患者様の間にあるのだという。
そこから考えた結果、

相手の話を私のフィルターで濾して、フィルターについた残り物に共感しなきゃ💦と必死になる。
これが葛藤の正体。確かに内側になかった。
通過した物は私のライフスタイルと一致しているわけであるからあまりにも気づきにくい。

共に感じると書いて共感。
相手と私の共に感じているところに目を向ければいいのに、矛盾点をみつけてその矛盾に立ち向かうから共感が難しのだろう。

そこで思い出すのが、仕事ができる人(ファンが多い人)は共通点探しや共通点を生み出すのに長けているということ。
同じライフスタイルを認め合うことができれば相手としても矛盾や葛藤がないだろう。

そうなってくる重要なのは、
相手を知るための質問力?

あれ?
質問力の本には共感の姿勢が大切とあって、でも共感のために自分で行き着いた先は質問力で…
堂々巡りをしている感じ😵‍💫

それが全てわかったら私はアドラーにでもなれるのでしょう。
というわけで今回、本書を読んでいて思い出した曲はBUMP OF CHICKENの『ひとりごと』

ねぇ 優しさってなんだと思う 僕少し解ってきたよ
きっとさ 君に渡そうとしたら 粉々になるよ

(中略)

人に良く思われたいだけ 僕は僕を押し付けるだけ
優しくなんかない そうなりたい なりかたが解らない

(中略)

一人では無理な事だから 誰かとの間に在るから
どちらのものでもない 名前のない それだけに出会いたい
ねぇ 優しさってなんだと思う もう考えなくたっていいや
本当さ 僕ら知らないうちに 僕らで作ったよ
二人で出会ったよ

BUMP OF CHICKEN『ひとりごと』

きっと今までの私がしてきたこと。
それは共感をお互いのライフスタイルに共通しないものから生み出そうとして、葛藤を抱えながら「やさしさ」として渡そうとしてきた。

その一方的な「やさしさ」つまるところ「押し付け」で、相手としても渡されても困るもの。(かもしれない)
本当の共感とは私とあなたの重なり合う部分で、二人で大切に作り上げていくものなのだ。

ベン図 集合

哲学、心理学は難しい😓
でも簡単な答えを見つけようとする、
ポジティブ・ケイパビリティに負けず
宙ぶらりんに耐える力である、
ネガティブ・ケイパビリティ
を大切にしていきたいと改めて感じる。

今回も長くなったのでここで締めたいと思う。
まだまだ「共感」探しの旅は続きそうだ。

※アドラー心理学における「ライフスタイル」
「自己と世界の現状と理想についての信念体系」
信念は、いわば科学的な根拠はないけれども、体験には裏づけられたもの。
(日本語では「性格」と置き換えられることもありますがそれでもやっぱり齟齬が生じるようです。)

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