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日本のテレビ局から中国へ—異国で見た赤い電波の真実

日本海テレビから中国国際放送へ—転身の背景とその決断

車を走らせながら、ぼんやりとラジオのチューニングを合わせていた。仕事帰りの時間帯、何気なく回したダイヤルから流れてきたのは、少しぎこちない日本語で届けられるニュースだった。「中国国際放送——」というアナウンスが聞こえ、その瞬間、私はラジオのボリュームを上げた。聞き慣れた日本の放送局とは違う、どこか異国情緒のある響きに、不思議と引き込まれたのだ。

当時、私は日本海テレビでアナウンサーとして働いていた。全国ネットの『ズームイン!!朝!』のリポーターを務める一方、地元のローカル番組では夕方5時の情報番組のパーソナリティとしても活動し、仕事は安定していた。取材に出かけ、カメラの前で話し、番組を進行する。忙しいながらも充実した日々を送っていた。

しかし、心のどこかで「次のステップ」を模索していたのも事実だった。

2003年、私は思い切って1年間の求職期間を取り、中国・北京へと語学留学をすることにした。北京五輪を数年後に控えた中国の熱気に触れてみたかったし、中国語という未知の言語を学ぶことで、新しい世界が開けるのではないかという期待があった。語言大学での留学生活は刺激に満ちていた。言葉を覚えるにつれ、街の喧騒や市場でのやり取り、新聞の見出しなどが少しずつ理解できるようになり、それが嬉しかった。

そんな折、ふとしたきっかけで出会ったのが、中国国際放送(CRI)だった。

あのラジオの放送がCRIのものだと知り、興味を持った私は、何気なくインターネットで調べ、軽い気持ちで問い合わせのメールを送ってみた。すると、予想外にもすぐに返信があった。「もしご興味があるなら、番組制作やアナウンスの経験を持つ人材を探しています。ぜひ一度お会いできませんか?」

この言葉を見た瞬間、胸が高鳴った。私の中で何かが動き始めたのを感じた。

とはいえ、日本海テレビの仕事は安定していたし、転職には大きな決断が伴う。だが、その頃の私は、留学を通して異文化に触れる楽しさを知り、もう一歩踏み出したいという気持ちを抑えきれなくなっていた。「せっかく中国語を学んだのだから、それを活かせる場がほしい」という思いが募り、私は勢いのままに決断を下した。

結果、私は日本海テレビを退職し、中国行きを決めた。

だが、実際に中国国際放送の日本支局を訪れたとき、驚きと戸惑いを覚えた。

日本支局といっても、それは立派なオフィスビルではなく、目黒のマンションの一室だった。事前に詳細な雇用契約が交わされるわけでもなく、「とりあえず来てください」と言われ、手渡されたのは北京行きの航空券のみ。まるで映画のワンシーンのような展開に、私は少し不安を覚えながらも、飛行機に乗り込んだ。

北京での新たな挑戦

北京に降り立つと、そこには私が想像していた以上の世界が広がっていた。留学で1年間過ごした北京だったが、「お客さん」ではなく、ココで働くのだという思いを持って降り立った北京は少し以前と違う雰囲気に感じた。空港を出た途端に感じたのは、日本とは違う空気の匂いだった。埃っぽく、どこか油の香りが混じった独特の空気。そして、街には絶え間なく響くクラクションの音。交通ルールはあるのかないのか分からないほどカオスな道路。だが、その活気こそが、まさに中国だった。

中国国際放送のオフィスは、北京市内の中心部から西側の郊外に位置していた。私は新しい職場に足を踏み入れた瞬間、言葉にできない高揚感を覚えた。日本とはまったく違う環境で、自分がどこまでやれるのか試してみたかった。

中国国際放送(当時)

給与と新生活

私の給料は12000元。当時のレートで約18万円ほどで、日本海テレビ時代と比べると大幅な減額だった。しかし、家賃補助として6000元(約9万円)が支給され、私は社屋がある「八宝山」周辺の地下鉄とつながるエリアにアパートを借り、新生活をスタートさせた。

新しい環境での暮らしは、刺激に満ちていた。仕事は決して楽なものではなかったが、それでも異文化の中で挑戦することが楽しく、毎日が発見の連続だった。

当時のオフィス

この中国国際放送での3年間を綴り、私が見た「赤い放送局」の全貌と真実を皆さんにお伝えしたい、そんな思いでこのエッセイのペンを取る。決して刺激的な内容や煽るものでなく、私が暮らした五輪前の北京と放送局の様子を等身大で振り返るエッセイにしたい。

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